串呂哲学研究ノート

三浦芳聖先生が解明された串呂哲学(神風串呂)を学ぶ串呂哲学研究会のブログです。串呂哲学は、日本の精神世界を学ぶことの出来る大変ユニークな学問です。少しずつ学ぶうち、荘厳で神秘的な楽しい宇宙が開けると想います。あなたも共に学びませんか。
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串呂哲学とは(3)串呂哲学経綸の主宰神
串呂哲学の経綸の主宰神は、天照大御神を始めとする日本神界の神々が大きく関与(主宰)していることは明らかである。
神皇正統 三浦皇統家 系図(しんのうしょうとう みうらこうとうけ けいず)
後醍醐天皇
−尊良天皇−興国天皇−小室門院¬
−宗良親王――――――小松天皇−松良天皇−大宝天皇−−−−−三浦芳聖
−義良親王――――――寛成親王−綾子皇后−大宝天皇
−宗良親王――――――小松天皇−松良天皇−光良親王−−−−睦仁親王

神皇正銃の天皇が天の岩戸篭リした事が地文に秘められていると
理解されたとき串呂哲学の要諦が一気に解明されたのであった。

 

 

 

(3) 串呂哲学経綸の主宰神
こうした神秘的な串呂哲学の経綸の主宰神は誰か、誰がいつ頃から仕組んだのか等については、確定的な答えはない。しかし重要串呂起点が「伊勢神宮」「石清水八幡宮」「応神天皇御陵」「多賀大社」「橿原神宮」「神武天皇御陵」などであることや、第11代垂仁天皇の第4皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)が、八咫鏡を奉戴して、大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を巡回する道中で、神風串呂で重要地文・重要串呂起点である、京都府福知山市大江町の「内宮」 (元伊勢神宮)、三重県三重郡菰野町の「御在所山」などの地名が命名された事蹟が明らかになっていることから、天照大御神を始めとする日本神界の神々が大きく関与(主宰)していることは明らかである。

 

その証拠というか、参考のため、皇大神宮内宮を基点とする神風串呂を一本ご紹介します。


【予備知識】
南北朝時代の歴史についての予備知識として、このブログの編集者が2009年2月11日 (水) にウィキペディアに投稿した下記の記事に目を通しておいて下さい。
三浦芳聖(ウィキペディア・2009年2月11日版

 

 

皇威の回復を熱祷祈願・大般若600巻を念書

神皇正統第百代大宝天皇(御名美良=よしなが)は、無二心忠誠の臣らと共に、永享10年戊午(西暦1438年)、愛知県額田郡河合村切越(現岡崎市切越町)に隠棲され、以後、大般若600巻を念書され、後世直系皇孫に神武・応神・後嵯峨・後村上・松良、五皇一体の八幡大明神を降誕せしめて必ず天下を平定し給わん事をと、皇威回復を熱祷祈願された。


満16年間にわたっての写経が満願に達した享徳3年甲戌(西暦1454)年、そのまごころが天照大御神の御心に達し、天照大御神の神勅により、大宝天皇は愛知県額田郡豊富村大字牧平字大門(現岡崎市牧平町大門)に移住した。



天照大御神の神勅により牧平大門に移住 

大宝天皇は、享徳3年甲戌(西暦1454)年、満16年間の行願満ちて至誠通神、図らずも天照大御神より「後世直系皇孫に神武・応神・後嵯峨・後村上・松良五皇一体の八幡大明神を降誕せしめ、必ず天下を平定せしめるから、今は三種の神器を地下深く埋蔵して天の岩戸篭りとし、皇后三浦佐久姫の姓を名乗りて三浦藤太夫と称し、牧平大門に移住して、子々孫々天運循環の時を待て」という主旨の神勅をこうむり、神命のまにまに、1454年(享徳3年)牧平大門に移住し、三種の神器を地下深く埋蔵して、皇后三浦佐久姫(建武の中興で活躍した富士大宮司家、三浦氏の嫡女)の姓を名乗り、三浦藤太夫と称し純然たる百姓となった。

 


牧平大門は天照大御神の神定の地

三浦家の系図によれば、牧平大門は天照大御神が五皇一体の八幡大明神の降誕予定地として指定された「日本天皇蒙塵(もうじん)の地」であり、大宝天皇は、享徳3年甲戌(西暦1454年)この地に移住し、皇后三浦佐久姫の姓を名乗り、三浦藤太夫と称した。爾来、三浦家累代450年間の住居であり、三浦芳聖の降誕地でもあります。

 


皇大神宮内宮から45度の方角

天照大御神をいつきまつる皇大神宮内宮から、天照大御神の神定の地「牧平大門」へ串呂しますと、下記のような地文となります。

「皇大神宮内宮」と「牧平大門」の神風串呂

「皇大神宮内宮」−「二見浦夫婦岩」−「佐久島」−「牧平町大門」

 


【串呂の解釈】

我が国二所の宗廟のひとつ皇大神宮内宮の天照大御神が、天皇蒙塵の地・牧平大門において、天の岩戸籠りをした第百代大宝天皇の皇后は佐久姫である(大宝天皇が三浦氏と婚姻関係を結び三浦と名乗った)ことを立証している。
驚くべきことには、この串呂が経線緯線に対し、45度の角度であることです。この串呂もまた三浦家に伝承された古記録が正しいことを証明する神風串呂です。「佐久島」は、三浦佐久姫を表す地文で、神皇正統家の天の岩戸篭りに当って、三浦佐久姫が、物心共に大きな働きをしたであろうことが想像できます。「牧平大門」は、正に「佐久の島」であります。

 

この一本の串呂からいろんなことが見えてきます。

1、皇大神宮内宮はなぜ現在地にあるのか。

2、二見浦夫婦岩はいつ二見浦夫婦岩と命名されたのか。

3、佐久島はいつ佐久島と命名されたのか。

4、この串呂はいつ神経綸(かみしくみ)されたのか。

5、正統天皇は初めから百代で終焉することになっていたのか。

 

各自で、自由に考察を進めて頂きたいと思います。

 

【地文の解釈】
皇大神宮内宮(ないくう、伊勢市宇治館町)地図 神宮(WEB頁)皇大神宮
皇祖天照大御神をお祭りするわが国二所の宗廟の一つ。重要串呂起点のひとつ。
承久記には「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ」と記されています。

 

二見浦夫婦岩(ふたみがうらみょうといわ) ウィキペディア記事 地図
二見浦は「ふたみうら」とも言う。「ふたうら」「みょうといわ」で、見浦(三浦)と夫婦になった(婚姻関係を結んだ)と解釈する。正統天皇が三浦氏と婚姻関係を結んで三浦の姓を名乗っていることをあらわす。

 

佐久島(さくしま、愛知県西尾市一色町) 地図 佐久島HP

大宝天皇の皇后「三浦佐久姫」の地文。三浦佐久姫は、三浦義勝五世の嫡孫、楠木正成六世の孫。父は三浦宗明、母は楠木正親の女・冬子。『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(291頁)には「皇后富士大宮司三浦氏の第六十一世の嫡女三浦佐久姫」とあります。

 

牧平町大門(まきひらちょうだいもん、愛知県岡崎市牧平町大門) 地図
大門(だいもん)は、「おおみかど」と解読します。大御門(おおみかど)=大帝(おおみかど)=天皇(または皇居)という意味と解釈します。三浦家の系図によれば、大宝天皇は、享徳3年甲戌(西暦1454年)この地に移住し、皇后三浦佐久姫の姓を名乗り、三浦藤太夫と称した。牧平町大門は天照大御神が五皇一体の八幡大明神の降誕予定地として指定された「日本天皇蒙塵(もうじん)の地」であり、大宝天皇以降、三浦家累代 450年間の住居であり、三浦芳聖の降誕地であります。

 

 

【参考資料】

インタ一ネットの「元伊勢神社内宮の由来」によれば、2010年前、第10代崇神天皇は「大宮地を求め鎮め奉れ」という天照大神の教えに従い、この但波へ遷幸し、天照大神を祀る神社を創建した。しかし4年後突然、皇大神は倭(やまと)へ帰り、54年後、伊勢に鎮座したとなっている。

 

また、「御在所山HP」には【御在所山の名の由来は「神や仏がいます所」の意で、菰野では、垂仁(すいにん)天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神の神霊を奉じて、大和の笠縫(かさぬい)の宮から伊勢の五十鈴川のほとりへお遷(うつ)しするとき、その鎮座地を求めて伊賀、近江、美濃の 国々を巡行されて、桑名の野代から亀山へ向かわれる途中、御在所山の上に、仮の屯宮(とんぐう)を 設けられた故事から、その名がついたと伝えられています。】と出ています。

 

◎ 串呂哲学研究会では、串呂哲学(神風串呂)をより深く学びたい方の為に、研究会テキスト教材を用意しています。お気軽にお申し込みください。

 

 

 

 

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