串呂哲学研究ノート

三浦芳聖先生が解明された串呂哲学(神風串呂)を学ぶ串呂哲学研究会のブログです。
串呂哲学は、日本の精神世界を学ぶことの出来る大変ユニークな学問です。少しずつ
学ぶうち、荘厳で神秘的な楽しい宇宙が開けると思います。あなたも共に学びませんか。
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松良天皇の後胤「睦仁親王(明治天王)」の神風串呂(4)
前回に引き続き、神皇正統第99代松良天皇(正良)の第四皇子「光良親王」の後胤「睦仁親王(明治天王)」の神風串呂をご紹介します。このブログは、その性質上、随時更新していますので、「ブログ検索等の二次的な記事」をご覧の方は、このブログの「最新記事」をご覧頂くようご案内します。より深く学びたい方の為に、研究会テキスト教材を用意しています。

【神皇正統 三浦皇統家 系図】(しんのうしょうとう みうらこうとうけ けいず)
後醍醐天皇
−尊良天皇−興国天皇−小室門院¬
−宗良親王――――――小松天皇−松良天皇−大宝天皇−−−−−三浦芳聖
−義良親王――――――寛成親王−綾子皇后−大宝天皇
−宗良親王――――――小松天皇−松良天皇−光良親王−−−−睦仁親王



4、睦仁親王(明治天王)の諺文「明治」(岡山県井原市美星町)について

「睦仁親王(明治天王)」をあらわす諺文(おんもん)である「明治」という地名は、日本全国に40ヶ所以上存在することが、インターネットの発達によって、地図検索で判明した。今後、それぞれの地文を起点とする神風串呂の解明を進めていかねばならないと考えているが、なぜか、愛知県内に「明治」という地名が多いのが特徴である。

      地名・施設「明治」一覧(現在判明している分・地図がリンクしています)
北海道
網走市明治
根室市明治町
余市郡赤井川村明治
上川郡美瑛町字明治
秋田県
能代市明治町
山形県
酒田市宮海字明治
福島県
いわき市平谷川瀬字明治町
いわき市明治団地
伊達郡飯野町明治
白河市田島明治
千葉県
松戸市上本郷明治神社(神社)
東京都
渋谷区代々木神園町明治神宮(神社)
富山県
富山市水橋明治町
長野県
東筑摩郡麻績村麻明治町
岐阜県
多治見市明治町
土岐市泉明治町
愛知県
名古屋市南区明治
一宮市明治通
愛知県犬山市内山「博物館明治村」(施設)
岡崎市舞木町字明治
安城市明治本町
安城市浜屋町明治川神社(神社)
額田郡幸田町高力字明治
西尾市上町明治
西尾市小間町明治
幡豆郡一色町大字冶明
豊橋市牟呂町字東明治
豊橋市牟呂町字西明治
京都府
京都市西京区大原野灰方町明治池
大阪府
富田林市小金台明治池
兵庫県
丹波市氷上町犬岡明治山
鳥取県
米子市明治町
倉吉市明治町
境港市明治町
岡山県
井原市(小田郡)美星町明治
井原市野上町明治池
福山市明治町
広島県
大竹市明治新開
島根県
安来市安来町明治町
山口県
宇部市明治町
山口市小郡下郷明治北
福岡県
北九州市戸畑区明治町
大牟田市明治町
大分県
大分市新明治
国東市安岐町明治
徳島県
徳島市沖浜町明治開

このようにたくさんある「明治」の中で、井原市(小田郡)美星町の明治は、睦仁親王(明治天王)をあらわす串呂哲学上の最重要地文として、1954年(昭和29年)6月1日に「美星町」(びせいちょう)という冠(かんむり)を贈られたのである。

【参考資料】
岡山県井原市美星町は、1954年(昭和29年)6月1日 - 小田郡美山村・堺村・宇戸村、川上郡日里村の4村が合併し町制を施行。町名は町内を流れる美山川と星田川の一字ずつから美星町と名付けられ、2005年(平成17年)3月1日、井原市に編入された。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)


小田郡」は、睦仁親王(明治天王)の母親の身分をあらわす地文。おそらく、睦仁親王(明治天王)の母親は、名もない庶民の出身であったことと思う。

【参考資料】
太田は、母が天皇(女帝)・内親王・女王などの皇族、中田は、母が高位高官の貴族出身、小田は、母が太田・中田以外の一般の家柄出身であることをあらわす地文のようだ。

美星とは、大日(天皇)にあらず、星(皇子)であるという意味であり、神皇正統の天皇(大日=太陽)を世に出す使命を持った、「明けの明星」としてこの世に出現したという意味である。このことをあらわす地文として、大分市新明治の西側に隣接して「明野」という地名がある。



くらげの漂うように混迷せる今日の日本の不幸は、睦仁親王(明治天王)が、この天与の使命を忘却し、神皇正統の天皇を世に出すことが出来なかったところに起因する。これは重大なる過誤であり、睦仁親王(明治天王)は、神霊界に於いて、その責任を問われ苦境に陥っているようだ。

この件を象徴する事例として、昭和43年の明治百年記念に、天才彫刻家「小金丸幾久」氏によって作られた高さ2.5m、重さ1トンもある「明治大帝の銅像」(軍服無帽姿の立像)が、長年各地を漂流するがごとく彷徨していたことを挙げることが出来る。

これは京都の某有名神社の宮司であった酒井氏に聞いた話であるが、この酒井氏がバスツアーで伊勢神宮に参拝した帰途、三重県の某所での休憩時に下車した時、偶然、近くの建築資材置き場の山積みせる廃材の中に頭部のみを現して埋もれる「明治大帝の銅像」を発見したというのである。

どのような経緯で三重県の所有者の手に渡ったのか不明であるが、この「明治大帝の銅像」は、「軍服無帽姿」であるが故に「安置する場所は屋内である事が望ましい」との理由から、長年決定的な「安置場所」が見つからず、国内諸所を彷徨っていたようだ。

36年間、各地を漂流していた「明治大帝の銅像」


左:酒井元宮司、右:相原宮司 (クリックで拡大します)
2003年5月、京都市内の某梵鐘製作所にて

戦後、明治神宮の神職を務めていた酒井元宮司は、後日所有者から譲り受けて、京都に引き取ったのであるが、銅像を安置する予定になっていた建物の所有者が、念のため霊能者に占ってもらったところ、「銅像は屋内に安置すべきではない」という理由で、引き取りを直前になって断わった為、銅像はその後、京都市内を転々とし、編集者がこの話を酒井氏から拝聴した2003年3月時は、某梵鐘製作所の作業所に置かれていた。銅像は、なんと1967年〜2003年の約36年間、落ち着く所を得られず、各地を漂流していたのである。

幸い2003年5月、広島県海田市海田町の「広島明治記念館」館長で広島市安芸区の切幡神社宮司の相原牧雄(アイハラマキオ)氏が引き取り、現在は広島明治記念館に安置されていると聞いている。



現在、世界に先駆けて進行中のわが国の少子高齢化社会の本質は、「人口の減少化」ということなのである。京都女子大学の「山田健司准教授」によれば、この人口の減少化は止まる所を知らず、日本の人口は、2105年には約4000万人となり、この人口の減少が止まるのは約3000万人前後になった時、とのことである。

この止まる所を知らぬ人口減少化現象は、現行社会の文化文明は、日本神界の支持を得られぬ本末転倒の仇花として、ことごとく流し捨てられ、江戸時代末期の人口に戻されるということなのである。

明治維新以後、睦仁親王(明治天王)を擁立せる新政府によって推進された「奇跡的な民族的発展」は、神皇正統の天皇を世に出すため、天照大御神をはじめとする神々の経綸によって行われたものであることを知るべきである。

天照大御神をはじめとする日本神界の御意向を無視せる「人為的なご都合主義」によっては、神国日本の経営は成り立ち得ないことを知らなければならない。




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