串呂哲学研究ノート

三浦芳聖先生が解明された串呂哲学(神風串呂)を学ぶ串呂哲学研究会のブログです。串呂哲学は、日本の精神世界を学ぶことの出来る大変ユニークな学問です。少しずつ学ぶうち、荘厳で神秘的な楽しい宇宙が開けると想います。あなたも共に学びませんか。
串呂哲学とは(9)串呂哲学の解読法 5、天佑神助

三浦芳聖は、串呂を解明する過程で、神秘的な現象を数多く体験している。いわゆる天佑神助である。霊感・地震・崩落・火災・事故・建造物など、このうち最もユニークなものが串呂研究中にどこからともなく飛来して串呂解明に必要な地文(地名)の上にとまったり、未解明の見えない串呂線上を這って行ったという「串呂の虫」(かんろのむし)の霊示である。

 

 

神皇正統 三浦皇統家 系図(しんのうしょうとう みうらこうとうけ けいず)
後醍醐天皇
−尊良天皇−興国天皇−小室門院¬
−宗良親王――――――小松天皇−松良天皇−大宝天皇−−−−−三浦芳聖
−義良親王――――――寛成親王−綾子皇后−大宝天皇
−宗良親王――――――小松天皇−松良天皇−光良親王−−−−睦仁親王

 


神皇正銃の天皇が天の岩戸篭もリした事が地文に秘められていると
理解されたとき串呂哲学の要諦が一気に解明されたのであった。

5、天佑神助

三浦芳聖は、串呂を解明する過程で、神秘的な現象を数多く体験している。いわゆる天佑神助である。その内の顕著な例を挙げると、神示(霊感・霊視・霊聴・串呂の虫など)・地震・噴火・崩落・火災・事故(交通事故・列車事故・ガス爆発など)・建造物の出現などである。このうちの最もユニークなものが串呂の研究中にどこからともなく飛来して、串呂解明に必要な地文(地名)の上にとまったり、未解明の見えない串呂線上を這って行ったという「串呂の虫」(かんろのむし)の霊示である。

 

ア、神示

皇祖大神(みおやのおおかみ)の霊示による御導きのことである。霊能者であった三浦芳聖に霊感・霊視・霊聴・串呂の虫などで串呂解明のお導きがあった事例は枚挙に暇がないほどである。三浦芳聖が発表した顕著な例をご紹介します。

 

・尊良天皇が登極したこと

三浦芳聖が豊川市諏訪町に住所を移転した昭和25(西暦1950)年、後醍醐天皇が三浦芳聖に神懸りして三浦芳聖の口を使って「後醍醐天皇が皇位を譲ったのは尊良親王である。」という重要事項の霊示があった。

 

・尊良天皇の贈名は「東山天皇」

昭和44年松良天皇御陵での祭祀中に霊示があり、尊良天皇の贈名は「東山天皇」であることを知らされ、串呂の解明により確定した。

 

・睦仁親王は松良天皇の第四皇子・光良親王の王孫

昭和42(1967)年6月15日の月次祭中に御神示があり、「睦仁親王は松良天皇の第四皇子・光良親王の王孫である」ことを知らされ串呂の解明が進んだ。

 

・串呂の虫による解明

三浦芳聖は、串呂哲学を解明する過程で、神秘的な現象を数多く体験している。そのうちの最もユニークなものが「串呂の虫」(かんろのむし)である。この串呂の虫とは、玉虫色の美麗な虫で、三浦芳聖が地図を広げての串呂研究中に、どこからともなく飛来して、串呂解明に必要な地文の上にとまったり、未解明の目に見えぬ串呂線上を這って行ったというのである。一般的には信じ難いことであるが、三浦芳聖は、このように「串呂の虫」があらわれて、重要な地名や串呂を発見したことが度々あったようだ。

 

三浦芳聖が発表した事例を挙げると

「高長」(兵庫県姫路市夢前町・尊良天皇をあらわす地文)を発見する時に、この「串呂の虫」が現れて地名の上にとまったというのである。この「高長」は、尊良天皇が、登極したことを証明する下記の串呂上の重要地文である。

「高長」と「八尺鏡野」の神風串呂

「竹生」−「上野」−「与位」−「高長」−「高御位山」−「高甲良山」−「八尺鏡野」

 

また、「光長」(島根県鹿足郡吉賀町注連川・松良天皇の第四皇子をあらわす地文)を発見する時に、この「串呂の虫」が現れて、地名の上にとまったというのである。

「光長」−「睦仁親王(明治天王)桃山御陵」−「御在所山」−「松永」−「四之宮」

 

この「光長」発見時は、昭和42(1967)年6月15日の月次祭の後、三浦芳聖が門人数十名(南朝史学会・藤原彦人氏同席)と串呂の研究をしている時だったので、居合わせた門人は、この「串呂の虫」を拝見する光栄に浴したようだ。

 

イ、地震

遠祖「小松天皇・皇后元子内親王」の御陵を発見

昭和23(西暦1948)年、静岡県磐田市惣兵衛下新田の松島金一郎家で午後9時頃、祭祀中に地震があり、その瞬間、三浦芳聖の霊眼に静岡県中部の五万分の一の地図が映じ、菊川市(菊川駅南東)の「堀之内」から相良町(牧之原市)の「堀之内」へ筋が引かれ、次に榛原町(牧之原市)の「堀之内」から小笠町の「堀之内」(菊川市河東の堀之内谷か?)へ筋が引かれ、さらに「松島」(島田市金谷町南西)から「鬼女新田」(牧之原市)へ筋が引かれ、三本の筋がほぼ交差する地点に塚が映ったので、この三本の串呂を地図上で引いて交差した三角地点内に小松天皇皇后、小室門院元子内親王の御陵「妙覚塚」(静岡県牧之原市相良町大寄部ヶ谷台上)を発見した。なお、堀之内は御陵の隠文である(古代古墳は、周りに堀が廻らされてある)。

 

ウ、噴火

 1940年(昭和15年)7月、三浦芳聖は、元企画院総裁滝正雄に呼び出され、軽井沢の近衛家の別荘で近衛文麿から東洋平和の方策について意見を求められ面会中であった。三宅島雄山は、7月12日午後7時30分に爆発した。その時、近衛文麿公の前で三宅島雄山を起点にして「大戦防−逆面」の串呂を解明したという。

 

エ、崩落

土砂崩れや崖崩れの事故の時には、「大崩(おくずれ・おおくずれ)」(千葉県安房郡鋸南町山梨県南巨摩郡身延町)を起点にして串呂を引くと、時の神意を知ることができた。

 

オ、火災

火災が起きた時には、「梶(かじ)」(大阪府守口市梶町福井県坂井市三国町梶など)を起点にして串呂を引くと、時の神意を知ることができた。

 

カ、事故

事故が起きた時には「的場(まとば)」(愛知県新城市静岡県駿東郡清水町など多数)を起点にして串呂を引くと、時の神意を知ることができた。

 

キ、建造物

中村公園の大鳥居

 

 

 


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| 串呂哲学 | 11:26 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
串呂哲学とは(8)串呂哲学の解読法 4、実証・論証・傍証の串呂

串呂哲学は、単線のみで恣意的に地文を取上げて独善的な解釈をする弊害を防止するため、縦横無尽に走る複数の串呂によって、実証・論証・傍証の串呂を考証し、多角的・論理的に解釈するのを原則とする。

 

 

神皇正統 三浦皇統家 系図(しんのうしょうとう みうらこうとうけ けいず)
後醍醐天皇
−尊良天皇−興国天皇−小室門院¬
−宗良親王――――――小松天皇−松良天皇−大宝天皇−−−−−三浦芳聖
−義良親王――――――寛成親王−綾子皇后−大宝天皇
−宗良親王――――――小松天皇−松良天皇−光良親王−−−−睦仁親王

 


神皇正銃の天皇が天の岩戸篭もリした事が地文に秘められていると
理解されたとき串呂哲学の要諦が一気に解明されたのであった。

 

実証の串呂

「串呂哲学とは(2)串呂哲学解明の経緯」で紹介した「蔵王山と三浦山の神風串呂」を詳細に考証すると、下記の串呂図の中の

 

串呂図「蔵王山と三浦山の神風串呂」 (クリックすると拡大します)

 

宮路山(みやじさん・愛知県豊川市赤坂町)

大宝天皇が炭焼きに変装して隠れ住んでいた所。大宝2(西暦702)年の持統天皇の御幸を記念して大正6年(1917年)に建立された「宮路山聖跡」の石碑がある。串呂哲学では、この石碑は「大宝天皇が炭焼きに変装して、からくも皇を保した聖跡を記念して天地神明が建立した」と解釈しています。宮路山(ウィキペディア)

 

寺野薬師堂(てらのやくしどう・愛知県岡崎市夏山町) 

大宝天皇が御父・松良天皇を隠祀した勅祭寺・行在所。大宝天皇の隠棲地「切越」から近く、ここで大般若六百巻を念書したと推察される。地元の古老は「ちち薬師」と呼ぶ。お参りすると母乳がよく出る御利益があると言われているが、「ちち」は「御父(ちち)松良天皇」に由来する。大楠で有名。「楠は木+南」で南朝のシンボル。

 

地元の方が発表したHPに「国道1号線・岡崎市本宿町沢渡交差点から国道473号線を北に約9km進むと、寺野集落の大きなカーブの正面崖上にお寺の屋根と大楠が見えます。大楠は、明治27年に周囲2.5mもある大枝が台風で折れた際、その枝が75円という価格で売れたそうです。江戸時代ここには正法寺という寺院がありましたが無住寺となり、その名が消えて今は薬師堂と呼ばれるお堂だけになりました。寺野の大クスは薬師堂のすぐ裏の崖にあり、県下では三番目に大きいクスノキですが、写真のように根を大きく崖面に見せています。これだけの根っ子はなかなかありません。」と出ています。 薬師堂の大楠(愛知県指定文化財)

 

牧平大門(まきひらだいもん、愛知県岡崎市牧平町大門)
大門(だいもん)は、「おおみかど」と解読します。大御門(おおみかど)=大帝(おおみかど)=天皇(または皇居)という意味と解釈します。三浦家の系図によれば、大宝天皇は、享徳3年甲戌(西暦1454年)この地に移住し、皇后三浦佐久姫の姓を名乗り、三浦藤太夫と称した。牧平町大門は天照大御神が五皇一体の八幡大明神の降誕予定地として指定された「日本天皇蒙塵(もうじん)の地」であり、大宝天皇以降、三浦家累代 450年間の住居であり、三浦芳聖の降誕地であります。

 

以上の3カ所は、大宝天皇が実際にその地を踏んでいる。このように、一本の串呂線上に一カ所以上、実地にその地を踏んだことのある地文(出生地、住居、隠棲地、御陵墓など)が存在する串呂を「実証の串呂」と呼びます。

 

論証の串呂

次にこの串呂線上の一つの地文を別の起点から貫線して考証することを論証と呼ぶ。上記の「蔵王山と三浦山の神風串呂」でいうと、「この串呂線上の牧平大門は、天照大御神の神勅によって移住した神定の地であるからには、天照大御神をお祭りする皇大神宮内宮から串呂したら必ず重要な地文があるはずである」と考え(理論立て)、その串呂線上に貫線する地文を考証する方法である。

 

すると、「串呂哲学とは(3)串呂哲学経綸の主宰神」で紹介した下記の「皇大神宮内宮」と「牧平大門」の神風串呂のように

「皇大神宮内宮」−「二見浦夫婦岩」「佐久島」−「牧平町大門」となり、「二見浦夫婦岩」と「佐久島」という二つの重要な地文を貫線していて、「我が国二所の宗廟のひとつ皇大神宮内宮の天照大御神が、天皇蒙塵の地・牧平大門において、天の岩戸籠りをした第百代大宝天皇の皇后は佐久姫である(大宝天皇が三浦氏と婚姻関係を結び三浦と名乗った)ことを立証している。」と、理論立てたことを証明することができるというわけである。

 

 

傍証の串呂

上記「蔵王山と三浦山の神風串呂」の串呂線上の一つの地文を、さらに別の起点から貫線して「だめ押し・確認の考証」をすることを傍証といいます。下記の「石清水八幡宮」と「牧平大門」の神風串呂を参照ください。

 

結論を先に申しますと、神風串呂は、実証―論証―傍証と仮に名付けていますが、天地神明の啓示が串呂(地文)を通して縦横無尽に無限にリンクしています。

 

風呂敷はどんなものでも包み込むことのできる便利なものですが、敷島の大和の国は、神が縦横無尽に敷き詰められた串呂の国だと言えるようです。

 

例、「石清水八幡宮」と「牧平大門」の神風串呂

以上の二本の串呂によって、天皇蒙塵の地・牧平大門において、天の岩戸籠りをした第百代大宝天皇の皇后は佐久姫である(大宝天皇が三浦氏と婚姻関係を結び三浦と名乗った)と三浦皇統家系図に記載されていたことが証明されたと思いますが、念のため、さらにわが国二所の宗廟の一つである石清水八幡宮から牧平大門に串呂して見ると下記のようになります。


「和気町」−「吉永中」−「竜子」−「石清水八幡宮」−「牧平町大門」−「佐久」−「藤太夫島」−「安房大神宮」

 

【串呂の解釈】
岡崎市牧平町大門は、大宝天皇(美良)が、三浦佐久姫の姓を名乗り、三浦藤太夫と称して民伍に隠れた天皇蒙塵の地であると、石清水八幡宮と安房大神宮が鑑定している。

 

【地文の解釈】(地図がリンクしてあります。)

和気町(わけ町・岡山県和気郡) 和気は、往昔、国体を変革せんとした弓削道鏡の企てを阻止した大忠臣・和気清麻呂公(護王大明神)の和気で、国体護持の護王精神を表します。三浦芳聖は、天皇に関する串呂では「正真正銘の天皇をあらわし(この和気の反対語は弓削)また、応神天皇の御名が「品陀和気(ほんだわけ)」ですから、之にも通ずることになると述べています。

 

吉永中(よしながなか・岡山県備前市吉永町) 吉永町は大宝天皇の諱(いみな)美良(よしなが)の諺文であります。吉永町吉永中は、吉永町の中心地区です。

 

竜子(りゅうこ・兵庫県たつの市揖西町)

たつの市揖西町龍子は、「たつのし いっさいちょう りゅうこ」と発音します。「たつの市」は町村合併の前は「龍野市」と書きました。「龍子」は「辰年の子」という意味に解釈できますが、「龍顔・龍駕・龍車・龍徳」などの言葉が示すように、龍は天子(天皇)の権威すなわち王権の象徴ですので、「天から王権を授与された者=天子」であるのと同様に「龍から王権を授与された者=龍子」と捉え、「龍子=天子・天皇」と解読します。そこで「龍子は天皇をあらわす」と解釈することもできます。地名の読み方が不明だったためか、三浦芳聖は、「りゅうし」と読んでいました。

 

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう、京都府八幡市八幡高坊)  石清水八幡宮(ウィキペディア)
石清水八幡宮といえば、戦前は我が国の二所の宗廟と言われ、朝廷から、伊勢の皇太神宮と並んで大変尊崇された官幣大社で「国体明徴」の神様です。現在も毎年9月15日に勅旨が参向して勅祭が行われています。石清水八幡宮の御祭神は、御本殿中央に八幡大神「誉田別尊(ほんだわけのみこと)=第十五代応神天皇」を、西に比賣大神(ひめおおかみ)東に神功皇后(息長帯比賣命)をお祀りしています。この石清水八幡宮の創建は平安時代初めの八五九年(貞観元年)大安寺の行教という僧が豊前国(今の大分県)の宇佐宮に参篭した時に「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」という八幡大神の御託宣(お告げ)を蒙り、同年男山の峯に八幡三所の神霊を奉安申し上げたことに始まります。『承久記』には「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ」と記されている。

 

牧平町大門(まきひらちょうだいもん、愛知県岡崎市牧平町大門)
大門(だいもん)は、「おおみかど」と解読します。大御門(おおみかど)=大帝(おおみかど)=天皇(または皇居)という意味と解釈します。三浦家の系図によれば、大宝天皇は、享徳3年甲戌(西暦1454年)この地に移住し、皇后三浦佐久姫の姓を名乗り、三浦藤太夫と称した。牧平町大門は天照大御神が五皇一体の八幡大明神の降誕予定地として指定された「日本天皇蒙塵(もうじん)の地」であり、大宝天皇以降、三浦家累代 450年間の住居であり、三浦芳聖の降誕地であります。

佐久(さく・静岡県浜松市天竜区) 大宝天皇皇后「三浦佐久姫」をあらわす地文。三浦佐久姫は、三浦義勝五世の嫡孫、楠木正成六世の孫。父は三浦宗明、母は楠木正親の女・冬子。『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(291頁)には「皇后富士大宮司三浦氏の第六十一世の嫡女三浦佐久姫」とあります。

 

藤太夫島(とうだゆうじま・静岡県藤枝市本郷) 大宝天皇の後称「三浦藤太夫」をあらわす地文。

 

安房大神宮(あわだいじんぐう、千葉県館山市大神宮)
皇室ゆかりの元官幣大社。天太玉命(アメノフトダマノミコト)、天富命(アメノトミノミコト)を始めとする神武天皇のご東征時代、即ち日本建国の為にご活躍された神々をお祭りする由緒ある神社です。神社のHPには安房神社となっていますが、千葉県館山市大神宮の地名が語っているように、この神社の通称は「安房大神宮」です。

 

 


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| 串呂哲学 | 10:14 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
串呂哲学とは(7)串呂哲学の解読法 3、絶対確証の串呂

同一串呂線上に「同文同種の地文」が三つ以上存在している場合、これを「絶対確証の串呂」と言い、天地神明が重大なる事柄を確定神示しているものと考える。

 

 

神皇正統 三浦皇統家 系図(しんのうしょうとう みうらこうとうけ けいず)
後醍醐天皇
−尊良天皇−興国天皇−小室門院¬
−宗良親王――――――小松天皇−松良天皇−大宝天皇−−−−−三浦芳聖
−義良親王――――――寛成親王−綾子皇后−大宝天皇
−宗良親王――――――小松天皇−松良天皇−光良親王−−−−睦仁親王

 


神皇正銃の天皇が天の岩戸篭リした事が地文に秘められていると
理解されたとき串呂哲学の要諦が一気に解明されたのであった。

 

串呂哲学の解読法 3、絶対確証の串呂

「串呂哲学とは(2)串呂哲学解明の経緯」で紹介した「蔵王山と三浦山の神風串呂」のように、同一串呂線上に同文同種の地文(この場合は「大門」)が三つ存在している場合、これを「三串(みつくし)の串呂」といいます。

 

同一串呂線上に同文同種の地文が三つ以上存在している場合、これを「絶対確証の串呂」と言い、天地神明が重大なる事柄を確定神示しているものと考えます。

 

このような確定神示の串呂には、著名な神社とか皇陵が存在して串呂を守護している場合や、重要串呂起点・重要地文が存在する場合が多いようです。

 

絶対確証の串呂の一例

・「寺野薬師堂・大楠」が守護している大門三串の「蔵王山と三浦山の神風串呂」

・三浦芳聖晩年の住所・終焉の地と三河八幡宮、伊勢八幡宮、尾張八幡宮を通る八幡宮三串の神風串呂

・三浦芳聖の三箇所の住所が一直方向線上に位置する「正善」と「降誕地」「仮寓地」「晩年の住所・終焉の地」を貫く神風串呂

・松良天皇の串呂上の符号が「和田」であることを昭示する「和田三串・御名・松永の神風串呂」

・大和三串・天子ヶ岳・御正体山の古代神都「東三河」立証の神風串呂

・「豊臣秀吉・大鳥居三串の神風串呂」

・南北朝和睦の真相を昭示する「後亀山天王御陵・勅使三串の神風串呂」
 

以上のほかにも、まだたくさんありますので、順次追加して参ります。

 

◎ 串呂哲学研究会では、串呂哲学(神風串呂)をより深く学びたい方の為に、研究会テキスト教材を用意しています。お気軽にお申し込みください。


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| 串呂哲学 | 17:39 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
串呂哲学とは(6)串呂哲学の解読法 2、串呂起点

串呂起点とは、串呂を引く場合に最初に糸を置く始点のことで、その串呂の鑑定元ともいうべき地文のことです。特に重要なものを七大串呂起点(仮称)と名付けました。

 

神皇正統 三浦皇統家 系図(しんのうしょうとう みうらこうとうけ けいず)
後醍醐天皇
−尊良天皇−興国天皇−小室門院¬
−宗良親王――――――小松天皇−松良天皇−大宝天皇−−−−−三浦芳聖
−義良親王――――――寛成親王−綾子皇后−大宝天皇
−宗良親王――――――小松天皇−松良天皇−光良親王−−−−睦仁親王

 


神皇正銃の天皇が天の岩戸篭リした事が地文に秘められていると
理解されたとき串呂哲学の要諦が一気に解明されたのであった。

 

 

串呂哲学の解読法 2、串呂起点

串呂起点とは、串呂を引く場合に最初に糸を置く始点のことで、その串呂の鑑定元ともいうべき地文のことです。特に重要なものを七大串呂起点(仮称)と名付けました。

 

七大串呂起点

皇大神宮内宮(三重県伊勢市宇治館町)地図 神宮(WEB頁)皇大神宮(ウィキペディア)

皇祖天照大御神をお祭りするわが国二所の宗廟の一つ。『承久記』には「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ」と記されています。第11代垂仁天皇の第4皇女の 倭姫命(やまとひめのみこと)が、八咫鏡 を奉戴して、大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を巡回する道中で、神風串呂で重要地文とされる、京都府福知山市大江町の「内宮」(元伊勢神宮)、三重県三重郡菰野町の「御在所山」などの地名が命名された事蹟が明らかになっていることから、 天照大御神を始めとする日本神界の神々が神風串呂に大きく関与していることは明らかである。

 

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう、京都府八幡市八幡高坊) 地図  神社HP 石清水八幡宮(ウィキペディア)
石清水八幡宮といえば、戦前は我が国の二所の宗廟と言われ、朝廷から、伊勢の皇太神宮と並んで大変尊崇された官幣大社で「国体明徴」の神様です。現在も毎年9月15日に勅旨が参向して勅祭が行われています。

石清水八幡宮の御祭神は、御本殿中央に八幡大神「誉田別尊(ほんだわけのみこと)=第十五代応神天皇」を、西に比賣大神(ひめおおかみ)東に神功皇后(息長帯比賣命)をお祀りしています。

この石清水八幡宮の創建は平安時代初めの八五九年(貞観元年)大安寺の行教という僧が豊前国(今の大分県)の宇佐宮に参篭した時に「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」という八幡大神の御託宣(お告げ)を蒙り、同年男山の峯に八幡三所の神霊を奉安申し上げたことに始まります。

『承久記』には「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ」と記されている。重要串呂起点。

 

橿原神宮(かしはらじんぐう、奈良県橿原市畝傍町)地図 神宮HP
神皇正統第一代神武天皇を祭る元官幣大社。橿原神宮は、祭神・神武天皇が畝傍山の東南・橿原の地に宮を建てられ即位の礼を行われた宮址に、明治23年に創建された元官幣大社。現在も毎年2月11日に勅使が参向して例祭(紀元祭・きげんさい)が行われている。重要串呂起点。

 

多賀大社(たがだいしゃ、滋賀県) 地図  多賀大社HP 多賀大社(ウィキペディア)
旧官幣大社で、祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)。長寿の神として信仰される。多賀大明神。多賀神社。俗称、お多賀さん。 串呂哲学の世界では「助命」の大神。重要串呂起点。

 

御正体山(みしょうたいやま、山梨県都留市鹿留)  地図 御正体山(ウィキペディア)
山梨県都留市と南都留郡道志村の境にある山。標高は1,681mで、道志山塊の最高峰である。日本二百名山、山梨百名山の一つに数えられている。その正体を鑑定する(正体は何かを見る)重要串呂起点。

 

御在所山(ございしょやま、三重県三重郡菰野町)地図 御在所山(ウィキペディア)
三重県三重郡菰野町と滋賀県東近江市にまたがる鈴鹿山脈の標高1,212 mの山。読みは「ございしょやま」。御在所岳の別名。全国各所にある御在所山の中で、鈴鹿山脈にあるこの三重三重郡と滋賀県東近江市に跨る御在所山が、地誌からも地文の上からも標高からも最高の御在所山。何がおわしますか(何が在るか)を見る重要串呂起点。
【参照】
インターネットの「御在所山HP」(広報こもの、平成18年6月号 No.550)を拝見しますと、〔御在所山の名の由来は「神や仏がいます所」の意で、菰野では、垂仁(すいにん)天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神の神霊を奉じて、大和の笠縫(かさぬい)の宮から伊勢の五十鈴川のほとりへお遷(うつ)しするとき、その鎮座地を求めて伊賀、近江、美濃の国々を巡行されて、桑名の野代から亀山へ向かわれる途中、御在所山の上に、仮の屯宮(とんぐう)を設けられた故事から、その名がついたと伝えられています。〕と出ています。
上記の伝承からは、神風串呂の経綸のために皇祖「天照大御神」御自ら、いろいろとご苦心されたことが拝察されます。 

 

 

公文(くもん・広島県尾道市御調町) 地図

公文とは文字通り、公(おおやけ)の地文という意味です。三浦芳聖は、「こうぶん」と読み「絶対に間違いないぞよと云う確証の地文」と解釈していました。 大辞林によれば、公(おおやけ)には、下記のように国家、朝廷、天皇、皇后などを意味すると出ていますので、公文を「国家、朝廷、天皇、皇后に関する地文」と解釈することも出来ます。 旧住所は御調郡御調町(みつぎ郡みつぎ町と読む)で、おしらべ郡おしらべ町とも読めるので、対象を調査するための串呂起点でもあります。

 

【参照】

イ、公(おおやけ)大辞林

\治や行政にたずさわる組織・機関。国・政府・地方公共団体など。古くは朝廷・幕府などをさす。

個人ではなく、組織あるいは広く世間一般の人にかかわっていること。

事柄が外部に表れ出ること。表ざた。表むき。

天皇。また、皇后や中宮。

ロ、最高の公文

全国の公文の中で、最高の地文は、広島県尾道市御調町の公文(旧住所は御調郡御調町)で、御調は「みつぎ」と読むが、おしらべ郡おしらべ町とも読めるので、ある地点・場所を調査するための重要串呂起点です。

 

その他の重要串呂起点

神社(鹿島神宮、香取神宮、安房神社、白鬚神社、湊川神社)など多数。

御陵(神武天皇御陵、応神天皇御陵、後醍醐天皇御陵)など多数。

天子ヶ岳(てんしがたけ・静岡県)天皇位に登極したかどうかを鑑定する地文。

天皇(てんのう・香川県他11ヶ所)天皇位に登極したかどうかを鑑定する地文。

天皇山(てんのうざん・和歌山県、青森県)天皇位に登極したかどうかを鑑定する地文。

高御位山(たかみくらやま・兵庫県)高御座の隠文。天皇位に登極したかどうかを鑑定する地文。

登玉(のぼりだま・長野県)登極(とうぎょく)の隠文。天皇位に登極したかどうかを鑑定する地文。

与位(よい・兵庫県)どのような位に就いたか、就くかを鑑定する地文。

公文名(くもんみょう、くもみょう、くもんな)名前を鑑定する地文。

甘呂(かんろ・滋賀県)串呂をあらわす地文。

御名(ごみょう・宍粟市山崎町、福井県敦賀市)天皇を始め、その名前を鑑定する串呂起点。

 

上記以外にも重要串呂起点はありますので、順次追加して参ります。

 

 

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串呂哲学とは(5)串呂哲学の解読法 1、諺文解読法
串呂は、神霊界の意図を三次元の地上(現象世界)に反映させたものであるため、さまざまな制約があることを理解し、臨機応変・柔軟に地文を解読しなければなりません。
神皇正統 三浦皇統家 系図(しんのうしょうとう みうらこうとうけ けいず)
後醍醐天皇
−尊良天皇−興国天皇−小室門院¬
−宗良親王――――――小松天皇−松良天皇−大宝天皇−−−−−三浦芳聖
−義良親王――――――寛成親王−綾子皇后−大宝天皇
−宗良親王――――――小松天皇−松良天皇−光良親王−−−−睦仁親王

 


神皇正銃の天皇が天の岩戸篭リした事が地文に秘められていると
理解されたとき串呂哲学の要諦が一気に解明されたのであった。

 

 

(5)串呂哲学の解読法

「串呂哲学(1)串呂哲学とは」で、「方角の正確な日本地図(国土地理院発行の地勢図・地形図)を貼り合わせたものと糸とによって、同一方角線上に連なる地名(集落、村落、神社、御陵、仏閣、山岳、丘陵、池湖沼、島、湾 など)を貫線的に考証し」と述べましたが、串呂哲学では、この「地名=地文」をどのように考証する(意味を読み取る)かが重要となります。串呂は、神霊界の意図を三次元の地上(現象世界)に反映させたものであるため、さまざまな制約があることを理解し、臨機応変・柔軟に地文を解読しなければなりません。

 

三浦芳聖は串呂哲学を解明する体験の中で、地名(地文)に秘められた様々な啓示を解読していきましたが、元来、神風串呂は、神皇正統家に伝わる「天津神の神意を読み取るための秘法」であり、普遍性を必要としない性格のものであることを始めに申し述べておきます。(串呂台とも言うべき三浦芳聖にしか理解できない事象が多々あったということです。)

 

1、諺文解読法

諺文(おんもん)とは、音標文字のことですが、串呂哲学では、「諺文(おんもん)=音文(おんもん)=隠文(おんもん)」で、地名の読み方の中に秘められた意味を読み解きます。これは、音韻により地名を転化させて地文を解読する技法のことです。三次元の限られた空間において、東西南北・縦横無尽に張り巡らされた串呂地文の中に秘められた神霊界の意図・啓示を、多角的な視点から柔軟に解読する技法のことを言います。因みに三浦芳聖はこれを「おんぶん」と読み、音韻による転化だけでなく、後述するさまざまな転化式解読法全般を諺文(おんぶん)と言っていました。

 

藤原石山著『南朝正統皇位継承論』(119頁)に、『熊谷家伝記』に後醍醐天皇の第11皇子の事を「遠良親王」、「遠露大和尚」と記されていることについて、後醍醐天皇の第十一皇子「満良親王」の「満良」を、「みちなが」と読み、「みちなが」は「道長」で「道長し」すなわち「遠路」で、遠良(えんろ)、遠露(えんろ)と 称したという解説が出ていて、こうしたことを「諺文学」「韻文学」といって、当時(南北朝時代)こうした学問が通用していたと書かれています。(編集者注、ここから満良の読み方は、みちながであり、みつながではなかったことが分かります。)

 

【参考資料】

ア、「語呂合わせ」という言葉があります。

ウィキペディア「語呂合わせ」には、「もともとは雅楽における旋法に由来する。」「言葉にリズムや音感を持たせて馴染み深くしたものである。文字を他の文字に換え縁起担ぎを行うものや、数字列の各々の数字や記号に連想される・読める音を当てはめ、意味が読み取れる単語や文章に置き換えることを指す。電話番号や暗証番号、数学など元の数字列が意味する事象を暗記する場合に使われる。」と出ています。「語=地文、呂=串呂です。」

 

イ、高橋良典著『謎の新撰姓氏録』(徳間書店)には「アナグラム」について詳しく説明されている。アナグラ ムと諺文(隠文)とは別物ですが、隠す、転ずる、という点では共通していると思います。ウィキペディア「アナグラム」 には「言葉遊びの一つで、単語または文の中の文字をいくつか入れ替えることによって、全く別の意味にさせる遊びである。」

 

 

これまでにご紹介した例を復習しましょう。

大門(だいもん)は、「おおみかど」と解読します。大御門(おおみかど)=大帝=天皇(または皇居)とい う意味と解釈します。

蔵王山(ざおうざん)・・蔵(くら)は大事な物をしまっておく所。蔵王=王が隠されている=王の隠棲地。
二見浦夫婦岩(ふたみがうらみょうといわ)二見浦は「ふたみうら」とも言う。「ふたうら」「みょうといわ」で、見浦(三浦)と夫婦になった(婚姻関係を結んだ)と解釈する。正統天皇が三浦氏と婚姻関係を結んで三浦の姓を名乗っていることをあらわす。

 

諺文(おんもん)解読法の例

音韻による転化の例

天神(てんじん)は、「あまつかみ」と読めるので天津神をあらわす。日本神話では高天原に座(いま)す 神々、また高天原から国土に降臨した神とその子孫の神々をいう=天皇をあらわす。

大門(だいもん)は、「おおみかど」と解読します。大御門(おおみかど)=大帝=天皇(または皇居)。

高長(こうちょう=姫路市夢前町)は、「たかなが」と読めるので、高長(こうちょう・たかなが)=尊良(たかなが)

高良(こうら)は、「たかなが」と読めるので、高良(こうら・たかなが)=尊良(たかなが)

松永(まつなが)=松長(まつなが)=松良(まつなが)

善正(ぜんしょう)は「よしまさ」と読めるので、「善正」(ぜんしょう・よしまさ)=芳聖(よしまさ)

正善(しょうぜん)は、「まさよし」と読めるので、正善(しょうぜん・まさよし)=正吉(まさよし)

登玉(のぼりだま)は、「とうぎょく」と読めるので、登玉(のぼりだま・とうぎょく)=登極(とうぎょく)

田貫(たぬき)は、狸(たぬき)に同じ。

 

象形文字・偏・旁・冠による転化

田は母をあらわす。元田は、母の名は元(もと)、黒田(田黒)は、母は二黒土星生まれ。

宮(みや)は、ウ冠+呂。ウ冠は庇護・守護・装飾。呂は串呂。

 

字義による転化

聖岳 ・聖山は天皇をあらわす。

聖湖・聖沼は皇后をあらわす。

御園(みその)は、皇室をあらわす雅語で、皇族をあらわす。同じ「みその」でも、草冠のある「御薗」は天 皇・皇后をあらわす。

竜王山は、天皇の顔を竜顔というように竜王=天皇をあらわす。辰年あるいは辰年の天皇をあらわす場合もある。

蔵王山(ざおうざん)、蔵(くら)は大事な物をしまっておく所。蔵王=王が隠されている=王の隠棲地。

神戸は、神は天皇をあらわし、戸は隠す意味をあらわすことから、天皇を隠した(御陵墓)の意味をあらわす。

馬木は、四緑木星午年生まれをあらわす。

和気(わけ)は、往昔、国体を変革せんとした弓削道鏡の企てを阻止した大忠臣・和気清麻呂公(護王大明神)の和気で、国体護持の護王精神、またはそういう精神の持ち主をあらわす。

弓削(ゆげ)は、和気に対する地文で国体変革(破壊)精神、またはそういう精神の持ち主をあらわす。弓削の道鏡に象徴される「臣下の身分で皇位を伺った逆賊」、「天照大御神の御心に反する」という意味に解釈する。

大松は、木星または甲(木の兄)・乙(木の弟)生まれの大物をあらわす。木星には四緑木星と三碧木星がある。

吉川(よしかわ)は、南朝の子孫をあらわす。参照 後醍醐天皇(皇子の名の読み)」

成川(なりかわ)は、南朝副統(吉野朝)の子孫をあらわす。憲良(義良)親王の子孫をあらわす。(寛成、熈成)

源次郎岳(げんじろうだけ)は、源氏の次男の意味。

狸・狐は、人を誑かす精神、またはそういう精神の持ち主をあらわす。たぬきは人を騙す者の象徴的存在。

田貫(たぬき)・田貫湖(たぬきこ)は、狸(たぬき)に同じ。

狸穴(まみあな・たぬきあな)は、「たぬきの巣」という意味で、人を誑かす精神、またはそういう精神の持ち主をあらわす。

 

複合型の転化

二見浦夫婦岩(ふたみがうらみょうといわ)二見浦は「ふたみうら」とも言う。「ふたうら」「みょうといわ」で、見浦(三浦)と夫婦になった(婚姻関係を結んだ)と解釈する。正統天皇が三浦氏と婚姻関係を結んで三浦の姓を名乗っていることをあらわす。

一身田専修寺(いしんでんせんじゆじ)は、一身田町にある真宗高田派本山の専修寺のことであるが、 三浦芳聖の母・元子が5ヶ年半、観音様を肌身離さず捧持して、一心専念に祈念を込めたことをあらわす。「一身」は「一心」、「田」は「母」。

高甲良山(たかこうらやま)は、甲の生まれの高良をあらわす。高良(こうら・たかなが)=尊良(たかなが)。

 

 

以上のほかにも、まだたくさんありますが、順次追加します。

 

 

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串呂哲学とは(4)串呂哲学の創始者三浦芳聖

戦前は政治結社「中部国民道場」を経営し皇政復古・昭和維新運動に挺身。戦後は、神命により南朝正統の皇胤であることを発表し、神風串呂(串呂哲学)・霊能力・三浦家に伝わる古文書・その他の文献に基づき、後醍醐天皇以降の正統の皇位がどのように継承されたかを解明した。

 

 

神皇正統 三浦皇統家 系図(しんのうしょうとう みうらこうとうけ けいず)
後醍醐天皇
−尊良天皇−興国天皇−小室門院¬
−宗良親王――――――小松天皇−松良天皇−大宝天皇−−−−−三浦芳聖
−義良親王――――――寛成親王−綾子皇后−大宝天皇
−宗良親王――――――小松天皇−松良天皇−光良親王−−−−睦仁親王

 


神皇正銃の天皇が天の岩戸篭リした事が地文に秘められていると
理解されたとき串呂哲学の要諦が一気に解明されたのであった。

 

 

(4)串呂哲学の創始者三浦芳聖

1904年(明治37年)9月17日(陰暦8月8日)生まれ。戦前は政治結社「中部国民道場」を経営し皇政復古・昭和維新運動に挺身。戦中は大政翼賛会愛知県支部錬成部長として県下の指導者錬成に当たる。

 

戦後は、神命により南朝正統の皇胤であることを発表し、神風串呂(串呂哲学)・霊能力・三浦家に伝わる古文書・その他の文献に基づき、後醍醐天皇以降の正統の皇位がどのように継承されたかを解明した。また、戦前戦後を通じ、不明であった遠祖の終焉の地(御陵墓)を調査制定し、神道祭祀により慰霊に努めた。

 

晩年の日課は、皇祖皇宗の神霊を始めとする有縁諸霊の祭祀と神宮御陵の参拝、神風串呂の解明、門人の育成など。趣味は弘法大師流の書道で、「明徳流・興国書道錬成会」を主宰。号 神竜。

 

 

三浦芳聖についての詳細は、このブログの編集者が2009年2月11日 (水) にウィキペディアに投稿した下記の記事の「生涯」をご覧ください。

三浦芳聖(ウィキペディア・2009年2月11日版

 

 

 

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串呂哲学とは(3)串呂哲学経綸の主宰神
串呂哲学の経綸の主宰神は、天照大御神を始めとする日本神界の神々が大きく関与(主宰)していることは明らかである。
神皇正統 三浦皇統家 系図(しんのうしょうとう みうらこうとうけ けいず)
後醍醐天皇
−尊良天皇−興国天皇−小室門院¬
−宗良親王――――――小松天皇−松良天皇−大宝天皇−−−−−三浦芳聖
−義良親王――――――寛成親王−綾子皇后−大宝天皇
−宗良親王――――――小松天皇−松良天皇−光良親王−−−−睦仁親王

神皇正銃の天皇が天の岩戸篭リした事が地文に秘められていると
理解されたとき串呂哲学の要諦が一気に解明されたのであった。

 

 

 

(3) 串呂哲学経綸の主宰神
こうした神秘的な串呂哲学の経綸の主宰神は誰か、誰がいつ頃から仕組んだのか等については、確定的な答えはない。しかし重要串呂起点が「伊勢神宮」「石清水八幡宮」「応神天皇御陵」「多賀大社」「橿原神宮」「神武天皇御陵」などであることや、第11代垂仁天皇の第4皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)が、八咫鏡を奉戴して、大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を巡回する道中で、神風串呂で重要地文・重要串呂起点である、京都府福知山市大江町の「内宮」 (元伊勢神宮)、三重県三重郡菰野町の「御在所山」などの地名が命名された事蹟が明らかになっていることから、天照大御神を始めとする日本神界の神々が大きく関与(主宰)していることは明らかである。

 

その証拠というか、参考のため、皇大神宮内宮を基点とする神風串呂を一本ご紹介します。


【予備知識】
南北朝時代の歴史についての予備知識として、このブログの編集者が2009年2月11日 (水) にウィキペディアに投稿した下記の記事に目を通しておいて下さい。
三浦芳聖(ウィキペディア・2009年2月11日版

 

 

皇威の回復を熱祷祈願・大般若600巻を念書

神皇正統第百代大宝天皇(御名美良=よしなが)は、無二心忠誠の臣らと共に、永享10年戊午(西暦1438年)、愛知県額田郡河合村切越(現岡崎市切越町)に隠棲され、以後、大般若600巻を念書され、後世直系皇孫に神武・応神・後嵯峨・後村上・松良、五皇一体の八幡大明神を降誕せしめて必ず天下を平定し給わん事をと、皇威回復を熱祷祈願された。


満16年間にわたっての写経が満願に達した享徳3年甲戌(西暦1454)年、そのまごころが天照大御神の御心に達し、天照大御神の神勅により、大宝天皇は愛知県額田郡豊富村大字牧平字大門(現岡崎市牧平町大門)に移住した。



天照大御神の神勅により牧平大門に移住 

大宝天皇は、享徳3年甲戌(西暦1454)年、満16年間の行願満ちて至誠通神、図らずも天照大御神より「後世直系皇孫に神武・応神・後嵯峨・後村上・松良五皇一体の八幡大明神を降誕せしめ、必ず天下を平定せしめるから、今は三種の神器を地下深く埋蔵して天の岩戸篭りとし、皇后三浦佐久姫の姓を名乗りて三浦藤太夫と称し、牧平大門に移住して、子々孫々天運循環の時を待て」という主旨の神勅をこうむり、神命のまにまに、1454年(享徳3年)牧平大門に移住し、三種の神器を地下深く埋蔵して、皇后三浦佐久姫(建武の中興で活躍した富士大宮司家、三浦氏の嫡女)の姓を名乗り、三浦藤太夫と称し純然たる百姓となった。

 


牧平大門は天照大御神の神定の地

三浦家の系図によれば、牧平大門は天照大御神が五皇一体の八幡大明神の降誕予定地として指定された「日本天皇蒙塵(もうじん)の地」であり、大宝天皇は、享徳3年甲戌(西暦1454年)この地に移住し、皇后三浦佐久姫の姓を名乗り、三浦藤太夫と称した。爾来、三浦家累代450年間の住居であり、三浦芳聖の降誕地でもあります。

 


皇大神宮内宮から45度の方角

天照大御神をいつきまつる皇大神宮内宮から、天照大御神の神定の地「牧平大門」へ串呂しますと、下記のような地文となります。

「皇大神宮内宮」と「牧平大門」の神風串呂

「皇大神宮内宮」−「二見浦夫婦岩」−「佐久島」−「牧平町大門」

 


【串呂の解釈】

我が国二所の宗廟のひとつ皇大神宮内宮の天照大御神が、天皇蒙塵の地・牧平大門において、天の岩戸籠りをした第百代大宝天皇の皇后は佐久姫である(大宝天皇が三浦氏と婚姻関係を結び三浦と名乗った)ことを立証している。
驚くべきことには、この串呂が経線緯線に対し、45度の角度であることです。この串呂もまた三浦家に伝承された古記録が正しいことを証明する神風串呂です。「佐久島」は、三浦佐久姫を表す地文で、神皇正統家の天の岩戸篭りに当って、三浦佐久姫が、物心共に大きな働きをしたであろうことが想像できます。「牧平大門」は、正に「佐久の島」であります。

 

この一本の串呂からいろんなことが見えてきます。

1、皇大神宮内宮はなぜ現在地にあるのか。

2、二見浦夫婦岩はいつ二見浦夫婦岩と命名されたのか。

3、佐久島はいつ佐久島と命名されたのか。

4、この串呂はいつ神経綸(かみしくみ)されたのか。

5、正統天皇は初めから百代で終焉することになっていたのか。

 

各自で、自由に考察を進めて頂きたいと思います。

 

【地文の解釈】
皇大神宮内宮(ないくう、伊勢市宇治館町)地図 神宮(WEB頁)皇大神宮
皇祖天照大御神をお祭りするわが国二所の宗廟の一つ。重要串呂起点のひとつ。
承久記には「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ」と記されています。

 

二見浦夫婦岩(ふたみがうらみょうといわ) ウィキペディア記事 地図
二見浦は「ふたみうら」とも言う。「ふたうら」「みょうといわ」で、見浦(三浦)と夫婦になった(婚姻関係を結んだ)と解釈する。正統天皇が三浦氏と婚姻関係を結んで三浦の姓を名乗っていることをあらわす。

 

佐久島(さくしま、愛知県西尾市一色町) 地図 佐久島HP

大宝天皇の皇后「三浦佐久姫」の地文。三浦佐久姫は、三浦義勝五世の嫡孫、楠木正成六世の孫。父は三浦宗明、母は楠木正親の女・冬子。『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(291頁)には「皇后富士大宮司三浦氏の第六十一世の嫡女三浦佐久姫」とあります。

 

牧平町大門(まきひらちょうだいもん、愛知県岡崎市牧平町大門) 地図
大門(だいもん)は、「おおみかど」と解読します。大御門(おおみかど)=大帝(おおみかど)=天皇(または皇居)という意味と解釈します。三浦家の系図によれば、大宝天皇は、享徳3年甲戌(西暦1454年)この地に移住し、皇后三浦佐久姫の姓を名乗り、三浦藤太夫と称した。牧平町大門は天照大御神が五皇一体の八幡大明神の降誕予定地として指定された「日本天皇蒙塵(もうじん)の地」であり、大宝天皇以降、三浦家累代 450年間の住居であり、三浦芳聖の降誕地であります。

 

 

【参考資料】

インタ一ネットの「元伊勢神社内宮の由来」によれば、2010年前、第10代崇神天皇は「大宮地を求め鎮め奉れ」という天照大神の教えに従い、この但波へ遷幸し、天照大神を祀る神社を創建した。しかし4年後突然、皇大神は倭(やまと)へ帰り、54年後、伊勢に鎮座したとなっている。

 

また、「御在所山HP」には【御在所山の名の由来は「神や仏がいます所」の意で、菰野では、垂仁(すいにん)天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神の神霊を奉じて、大和の笠縫(かさぬい)の宮から伊勢の五十鈴川のほとりへお遷(うつ)しするとき、その鎮座地を求めて伊賀、近江、美濃の 国々を巡行されて、桑名の野代から亀山へ向かわれる途中、御在所山の上に、仮の屯宮(とんぐう)を 設けられた故事から、その名がついたと伝えられています。】と出ています。

 

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串呂哲学とは(2)串呂哲学解明の経緯

父親が断末魔に絶叫した言葉「奥郡の蔵王山より木曾の三浦山を見よ! 」が串呂哲学解明の糸口であった。

 

 

神皇正統 三浦皇統家 系図(しんのうしょうとう みうらこうとうけ けいず)
後醍醐天皇
−尊良天皇−興国天皇−小室門院¬
−宗良親王――――――小松天皇−松良天皇−大宝天皇−−−−−三浦芳聖
−義良親王――――――寛成親王−綾子皇后−大宝天皇
−宗良親王――――――小松天皇−松良天皇−光良親王−−−−睦仁親王

 

 

神皇正銃の天皇が天之岩戸篭リした事が地文に秘められていると

理解されたとき串呂哲学の要諦が一気に解明されたのであった。

 

(2)串呂哲学解明の経緯

 

三浦芳聖の父「三浦市次郎」は、1913年(大正2年)6月、富士登山から帰宅後体調が思わしくなく、地元の医師の往診を受けつつ病床に臥せっていたが、病状は一向に回復せず、6月30日の朝、死期を悟ったのか、学校へ行く挨拶に来た芳聖に、学校を休んで看病するよう命じた。

 

そして、他の兄弟が学校へ行ってしまうと、枕元で看病している芳聖に、三浦家に一子相伝に伝えられて来た「大切なもの」が埋めてある場所を教えて、次のような内容の話をした。「この度は、到底生き延びることは出来ないだろう。このことはまだ誰にも話していないが、他で事業に失敗して莫大な債務が残っているので、私の死後、三浦家がどのようなことになるか分からないが、三浦家に一子相伝・極秘裏に伝えられて来た大切なものが、お蔵の南に埋めてあるから、数えの21歳になって壮丁検査(徴兵検査)が済んだなら掘り出して見なさい。そしてまた別の所に埋蔵して、この事は時機が来るまで自分の後継者になる子供以外には、たとえ将来結婚する妻といえども決して語ってはならない。それが三浦家の掟である。」

 

そして、その夕刻、午後5時頃「三浦市次郎」は、家族・親族がそろって、念仏を唱えながら口元に末期の水をつけて見守る中、三医師の看病もむなしく、遂に臨終を告げられたのだが、その今わの際に、突然、ガバッと上半身を起こして、布団の上に座ったかと思うと、 (おくごおりのざおうざんより きそのみうらやまをみよ!)と絶叫して息を引き取った。

 

不思議な事には、この断末魔の絶叫は、その場に居合わせた人々の耳には「わぁ、わぁ、わぁ、わぁ〜」 という意味不明の音声にしか聞こえなかったが、芳聖の耳には「奥郡の蔵王山より木曾の三浦山を見よ! 」と明瞭に聞き取れたのであった。この父親の最期の絶叫、「奥郡の蔵王山より木曾の三浦山を見よ! 」は、「串呂哲学」解明の糸口になる「天啓」であったが、このとき数え年10才の小学生であった芳聖には知る由もなかった。

 

父親が死去したあと、事業に投資したという莫大な債務を支払う為、先祖伝来の山林、田地田畑、家屋敷、屋財家財ことごとく全ての財産が競売に付され、三浦家は破産、一家離散となり、三浦芳聖は、しばらくの間、母親の郷里の宮崎山伝正院に預けられた後、蒲郡市清田町の浄土宗西山深草派三河総本山「楠林山安楽寺」の小僧にやられ、1913年(大正2年)8月24日、富永慶法老師(後に第八十八世浄土宗西山深草派総本山誓願寺管長)について剃髪得度、僧名「慶定」(けいじょう)、時に数え年10才(満令8才11ヶ 月)、小学校三年生の夏のことであった。

 

運命の大転換で楠林山安楽寺の小僧となった三浦芳聖の人生は、お寺での峻烈極まりない修行の日々が始まった。お寺の小僧となった三浦芳聖は、父親が断末魔に絶叫した言葉「奥郡の蔵王山より木曾の三浦山を見よ! 」が何を意味するのかとても気になったので、その後、お寺の許可を得て、何度も田原の蔵王山に登って実際に木曽の三浦山を見たり、ある時は田原の蔵王山から木曾の三浦山まで行脚して三浦山に登って見たが、父親が絶叫した言葉の意味は容易に解けるものではなかった。

 

1918年(大正7年)3月、三浦芳聖は、お寺の住職となる資格を取得するため、数え年15歳で上洛、中学および仏教専門学校に学んだ。その学生時代のある日、父親が断末魔に絶叫した言葉「奥郡の蔵王山より木曾の三浦山を見よ!」の意味を解明するため、国土地理院発行の20万分の1の地勢図を繫ぎ合せ、地図上の田原市の「蔵王山の山巓」と木曾の「三浦山の山巓」(長野県木曽郡王滝村)とを糸で結んで見た。

 

すると不思議なことにその線上に、三浦芳聖の「出生地の牧平大門J (岡崎市牧平町大門)が通ってい た。三浦芳聖は、神秘的な思いでこの線上に位置する他の集落の「地名」を調べてみた所、出生地の牧平「大門」のほかに、岐阜県中津川市付知町の「大門」、愛知県蒲郡市大塚町の「大門」と、同じ「大門」 という地名が三箇所も通っていることを発見した。この発見が串呂哲学解明の糸口となったのだが、このとき、三浦芳聖は、この地文が何を意味するのか全く不明であったという。

 

三浦芳聖は、「蔵王山」(愛知県田原市)−「大門」(蒲郡市大塚町)−「大門」(愛知県岡崎市牧平町) —「大門」(岐阜県中津川市付知町)−「三浦山」(長野県木曾郡王滝村)の線上に何か重大な啓示が秘められているのではないかと直感し、さらに研究を続けていくことにした。

 

串呂図「蔵王山と三浦山の神風串呂」 (クリックすると拡大します)

 

串呂の解明が本格的に始まったのは、1924年(大正13年)6月30日、三浦芳聖が父親の遺言に従って、三浦家に一子相伝・極秘で伝承された古記録(系図その他の文書)を地下から掘り出して読んだ時のことである。

 

その古記録には後醍醐天皇から皇位を継承した代々の天皇の事蹟が細々(こまごま)と記され、三浦家はその直系の皇孫であると書かれてあったという。 こうした三浦家に伝承された古記録の知識を元に、「蔵王山」−「大門」(大塚町)−「大門」(牧平町)− 「大門」 (付知町)−「三浦山」の串呂の意味を考察したとき「神皇正統の天皇が天の岩戸籠りしたことを、天地神明が地文に秘めておかれたのだ」と理解され、一気に串呂哲学の要諦が解明されたのであった。

 

【地文の解釈】

大門(だいもん)・・・大御門(おおみかど)=大帝(おおみかど)

三浦芳聖の出生地・牧平大門の地図

蒲郡市大塚町大門の地図

岐阜県中津川市付知町大門のバス停の写真

蔵王山(ざおうざん)・・蔵(くら)は大事な物をしまっておく所。=王の隠棲地=王が隠されている。

田原市の蔵王山は、愛知県豊橋市の西南方1Okmにある標高250メー卜ルの山。平安朝末期ごろ、今の三重県熊野地方の一族が移住して山岳信仰の中心地とされ、江戸時代には田原藩の「狩り」の場所として利用された。奥郡(おくご おり)とは、田原市赤羽根町・渥美町近辺を指す。

三浦山(みうらやま)・・・三浦と名乗った。

三浦山(長野県木曾郡王滝村)は、中央アルプス御嶽山西南方に位置する標高2393mの山岳信仰の山として有名。西南方に「三浦貯水池」「三浦ダム」などがある。

「蔵王山」−「三浦山」の串呂

二十万分の一の地勢図「富山J「高山」「飯田」「豊橋J「伊良湖岬」の五枚を貼り合わせたもの。細 部は五万分の一の地形図やニ万五千分の一の地形図で調べる。地図検索でも調べることが出来る。

 

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串呂哲学とは(1)串呂哲学とは

三浦芳聖が創始した神秘的な地文学の事で、方角の正確な日本地図(国土地理院発行の地勢図•地形図)を貼り合わせたものと糸とによって、同一方角線上に連なる地名(集落、村落、神社、御陵、仏閣、山岳、丘陵、池湖沼、島、湾 など)を貫線的に考証し、神意を読み取る神秘的な方位学で、神皇正統家に極秘で伝えられたものである。

 

 

神皇正統 三浦皇統家 系図(しんのうしょうとう みうらこうとうけ けいず)
後醍醐天皇
−尊良天皇−興国天皇−小室門院¬
−宗良親王――――――小松天皇−松良天皇−大宝天皇−−−−−三浦芳聖
−義良親王――――――寛成親王−綾子皇后−大宝天皇
−宗良親王――――――小松天皇−松良天皇−光良親王−−−−睦仁親王

 

 

神皇正銃の天皇が天之岩戸篭リした事が迆文に秘められていると

理解されたとき串呂哲学の要諦がー気に解明されたのであった。

 

(1)串呂哲学とは

串呂哲学は戦後南朝正統の皇胤であると主張した愛知県豊川市の三浦芳聖が創始した神秘的な地文学の事で、方角の正確な日本地図(国土地理院発行の地勢図•地形図)を貼り合わせたものと糸とによって、同一方角線上に連なる地名(集落、村落、神社、御陵、仏閣、山岳、丘陵、池湖沼、島、湾 など)を貫線的に考証し、神意を読み取る神秘的な方位学で、神皇正統家に極秘で伝えられたものである。

 

神霊・天地神明(サムシング・グレイ卜)の啓示・意図が地文に秘められていて、南北朝時代の正しい歴史の解明をはじめ、さまざまな神意を認識することが出来るという神秘的なもので、正統の天皇家に伝えられたものを、その嫡孫である三浦芳聖が生涯をかけて哲学的に解明した。


串呂(かんろ・くしろと読むことも ある)という名称は、地名を串団子のように貫線的に考証して神意を読み取る事から、串(くし)と呂(みち)という象形文字 が充てられたと推察される。管見によれば、この言葉は、三河吉野朝の研究書『芳花鶴水園の聖地』(山口保吉・昭和18年10月15日)の2頁の叙に「(前略)究宗子自得の古学に憑り神風串呂の根幹を闡明し・・・」(服部美次)とあり、この(正統天皇の隠棲地である)三河地方に代々伝えられていたことが分かるのである。


 

串呂哲学の名称は、三浦芳聖が1956年(昭和31年)に著述した『串呂哲学第一輯−絶対真理 の解明』の原稿を読んだ京都の両洋学園長・中根正親(中根式速記法の創案者)が名付けたと言われている。

 

串呂哲学は、人間智ではとうてい計り知れない奥深く不思議な世界で、到底人間業で作られたものではないという事から、三浦芳聖は古代から伝えられた神風串呂(しんぷうかんろ、かみかぜくしろと読むこともある)という呼称を愛し、尊重し、踏襲した。単に地文学と呼ぶこともあった。

 

【脚注】

国土地理院発行の5万分の一の地図は、方角が正しい「メルカトール図法」で作製されている。メルカトール図法(角度が正しい図法)は、地球を縦に置いた円筒に投影し、その円筒を開いたもの。経線と子午線が地図上でも直交しているのが特徴。国土地理院の地図に使用されているのはこのバリエーシヨンのユニバーサル・横メルカトール図法(横に置いた円筒を使用し6度単位で処理する)である。

 

 

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