串呂哲学研究ノート

三浦芳聖先生が解明された串呂哲学(神風串呂)を学ぶ串呂哲学研究会のブログです。串呂哲学は、日本の精神世界を学ぶことの出来る大変ユニークな学問です。少しずつ学ぶうち、荘厳で神秘的な楽しい宇宙が開けると想います。あなたも共に学びませんか。
『太平記』巻第十八の7(国民文庫)
『太平記』巻第十八の7(国民文庫)入力者 荒山慶一

○春宮(とうぐう)還御(くわんぎよの)事(こと)付(つけたり)一宮(いちのみや)御息所(みやすどころの)事(こと) S1807

去(さる)程(ほど)に夜明(あけ)ければ、蕪木(かぶらき)の浦より春宮(とうぐう)御座(ござ)の由告(つげ)たりける間、島津駿河(するがの)守(かみ)忠治(ただはる)を御迎に進(まゐら)せて取(とり)奉る。去(さんぬる)夜金崎(かねがさき)にて討死自害の頚百五十一(ひやくごじふいち)取並(とりなら)べて被実検けるに、新田(につた)の一族(いちぞく)には、越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)・里見(さとみ)大炊助(おほいのすけ)義氏(よしうぢ)の頚許(ばかり)有(あつ)て、義貞・義助二人(ににん)の首(くび)は無(なか)りけり。さては如何様(いかさま)其辺(そのへん)の淵の底なんどにぞ沈めたらんと、海人(あま)を入(いれ)て被(かづ)かせけれ共(ども)、曾(かつて)不見ければ、足利(あしかが)尾張(をはりの)守(かみ)、春宮(とうぐう)の御前(おんまへ)に参(まゐり)て、「義貞・義助二人(ににん)が死骸、何(いづ)くに有(あり)とも見へ候はぬは、何(なん)と成候(なりさふらひ)けるやらん。」と被尋申ければ、春宮(とうぐう)幼稚なる御心(おんこころ)にも、彼(かの)人々杣山(そまやま)に有(あり)と敵に知(しら)せては、軈(やが)て押寄(おしよす)る事もこそあれと被思召けるにや。「義貞・義助二人(ににん)、昨日の暮程(ほど)に自害したりしを、手(て)の者共(ものども)が役所の内にして火葬にするとこそ云(いひ)沙汰せしか。」と被仰ければ、「さては死骸のなきも道理也(なり)けり。」とて、是(これ)を求(もとむ)るに不及。さてこそ杣山(そまやま)には墓々敷(はかばかしき)敵なければ、降人にぞ出(いで)んずらんとて、暫(しばし)が程は閣(さしおき)けれ。我執(がしふ)と欲念(よくねん)とにつかはれて、互に害心を発(おこ)す人々も、終(つひ)には皆無常の殺鬼(せつき)に逢ひ、被呵責ことも不久。哀(あはれ)に愚かなる事共(ことども)なり。新田越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)・並(ならびに)一族(いちぞく)三人(さんにん)、其外(そのほか)宗徒(むねと)の首(くび)七(ななつ)を持(もた)せ、春宮(とうぐう)をば張輿(はりこし)に乗進(のせまゐら)せて、京都へ還(かへ)し上(のぼ)せ奉る。諸大将(しよだいしやう)事の体(てい)、皆美々敷(びびしく)ぞ見へたりける。越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)の首をば、大路(おほち)を渡して獄門(ごくもん)に被懸。新帝御即位(ごそくゐ)の初(はじめ)より三年の間は、天下の刑(けい)を不行法也(なり)。未(いまだ)河原(かはら)の御禊(おんはらひ)、大甞会(だいじやうゑ)も不被遂行先に、首(くび)を被渡事は如何(いかが)あるべからん。先帝重祚(ちようそ)の初(はじめ)、規矩掃部助(きくのかもんのすけ)高政(たかまさ)・糸田(いとだ)左近(さこんの)将監(しようげん)貞吉(さだよし)が首を被渡たりしも、不吉の例(れい)とこそ覚(おぼ)ゆれと、諸人の意見共(いけんども)有(あり)けれ共(ども)、是(これ)は朝敵(てうてき)の棟梁(とうりやう)義貞の長男なればとて、終(つひに)大路(おほち)を被渡けり。春宮(とうぐう)京都へ還御成(なり)ければ、軈(やがて)楼(ろう)の御所を拵(こしら)へて、奉押篭。一宮(いちのみや)の御頚(おんくび)をば、禅林寺(ぜんりんじ)の長老夢窓国師(むさうこくし)の方へ被送、御喪礼(ごさうれい)の儀式を引繕(ひきつくろは)る。さても御匣殿(みくしげどの)の御歎(おんなげき)、中々(なかなか)申(まうす)も愚(おろか)也(なり)。此御匣殿(このみくしげどの)の一宮(いちのみや)に参り初給(そめたまひ)し古(いにし)への御心(おんこころ)尽(つく)し、世に類(たぐひ)なき事とこそ聞へしか。一宮(いちのみや)已(すで)に初冠(うひかうむり)めされて、深宮(しんきゆう)の内に長(ひととなら)せ給(たまひ)し後、御才学(ごさいかく)もいみじく容顔(ようがん)も世に勝(すぐ)れて御座(おはせし)かば、春宮(とうぐう)に立(たた)せ給(たまひ)なんと、世の人時明逢(ときめきあ)へりしに、関東(くわんとう)の計(はから)ひとして、慮(おもひ)の外(ほか)に後二条(ごにでうの)院(ゐん)の第一(だいいち)の御子春宮(とうぐう)に立(たた)せ給(たまひ)しかば、一宮(いちのみや)に参り仕(つかふ)べき人々も、皆望(のぞみ)を失ひ、宮も世中(よのなか)万(よろ)づ打凋(うちしをれ)たる御心地(おんここち)して、明暮(あけくれ)は只詩哥(しいか)に御心(おんこころ)を寄せ、風月に思(おもひ)を傷(いたま)しめ給ふ。折節(をりふし)に付(つけ)たる御遊(おんあそび)などあれ共(ども)、差(さし)て興(きよう)ぜさせ給ふ事もなし。さるにつけては、何(いか)なる宮腹(みやばら)、一(いち)の人の御女(おんむすめ)などを角(かく)と仰(おほせ)られば、御心(おんこころ)を尽(つく)させ給ふまでもあらじと覚(おぼ)へしに、御心(おんこころ)に染(そ)む色も無(なか)りけるにや、是(これ)をと被思召たる御気色(ごきしよく)もなく、只独(ひとり)のみ年月を送らせ給(たまひ)ける。或時(あるとき)関白左大臣の家にて、なま上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)余(あま)た集(あつまり)て、絵合(ゑあはせ)の有(あり)けるに、洞院(とうゐん)の左大将の出されたりける絵に、源氏の優婆塞(うばそく)の宮(みや)の御女(おんむすめ)、少し真木柱(まきばしら)に居隠(かくれ)て、琵琶を調(しら)べ給(たまひ)しに、雲隠(くもがく)れしたる月の俄(にはか)に最(いと)あかく指出(さしいで)たれば、扇(あふぎ)ならでも招(まねく)べかりけりとて、撥(ばち)を揚(あげ)てさしのぞきたる顔つき、いみじく臈闌(らふたけ)て、匂(にほ)やかなる気色(けしき)云(いふ)ばかりなく、筆を尽(つく)してぞ書(かき)たりける。一宮(いちのみや)此(この)絵を被御覧、無限御心(おんこころ)に懸りければ、此(この)絵を暫被召置、みるに慰(なぐさ)む方(かた)もやとて、巻返(まきかへし)々々(まきかへし)御覧ぜらるれ共(ども)、御心(おんこころ)更(さら)に不慰。昔漢李夫人(かんのりふじん)甘泉殿(かんせんでん)の病(やまひ)の床に臥して無墓成給(なりたまひ)しを、武帝悲(かなし)みに堪兼(たへかね)て返魂香(はんごんかう)を焼玉(たきたまひ)しに、李夫人(りふじん)の面影(おもかげ)の烟の中に見へたりしを、似絵(にせゑ)に書(かか)せて被御覧しかども、「不言不笑令愁殺人。」と、武帝の歎給(なげきたまひ)けんも、現(げ)に理(ことわり)と思知(おもひしら)せ給ふ。我ながら墓(はか)なの心迷(こころまよひ)やな。誠の色を見てだにも、世は皆夢の中(うち)の現(うつつ)とこそ思ひ捨(すつ)る事なるに、是(これ)はそも何事(なにこと)の化(あだ)し心ぞや。遍照僧正(へんぜうそうじやう)の哥の心を貫之(つらゆき)が難(なん)じて、「歌のさまは得たれ共(ども)実(まこと)少(すくな)し。譬(たと)へば絵に書ける女を見て徒(いたづら)に心を動(うごか)すが如し。」と云(いひ)し、其類(そのたぐひ)にも成(なり)ぬる者哉(かな)と思棄(おもひすて)給へ共(ども)、尚(なほ)文悪(あやにく)なる御心(おんこころ)胸(むね)に充(みち)て、無限御物思(おんものおもひ)に成(なり)ければ、傍(かた)への色異(こと)なる人を御覧じても、御目をだにも回(めぐ)らされず。況(まし)て時々の便(たよ)りにつけて事問通(とひかは)し給ふ御方様(おんかたさま)へは、一急雨(ひとむらさめ)の過(すぐ)る程の笠宿(かさやど)りに可立寄心地(ここち)にも思召(おぼしめ)さず。世中(よのなか)にさる人ありと伝聞(つたへきき)て御心(おんこころ)に懸(かか)らば、玉垂(たまだれ)の隙(ひま)求(もとむ)る風の便(たより)も有(あり)ぬべし。又僅(わづか)に人を見し許(ばかり)なる御心(おんこころ)当(あて)ならば、水の泡(あわ)の消返(きえかへ)りても、寄(よ)る瀬(せ)はなどか無(なか)るべきに、是(これ)は見しにも非(あら)ず聞(きき)しにも非(あら)ず、古(いにしへ)の無墓物語、化(あだ)なる筆の迹(あと)に御心(おんこころ)を被悩ければ、無為方思召煩(おぼしめしわづら)はせ給へば、せめて御心(おんこころ)を遣方(やるかた)もやと、御車(おんくるま)に被召、賀茂(かも)の糾(ただす)の宮(みや)へ詣(まうで)させ給ひ、御手洗河(みたらしかは)の川水を御手水(おんてうづ)に結(むす)ばれ、何(なん)となく河に逍遥(せうえう)せさせ給ふにも、昔業平(なりひらの)中将(ちゆうじやう)、恋せじと御祓(みそぎ)せし事も、哀(あはれ)なる様(さま)に思召出(おぼしめしいだ)されて、祈る共(とも)神やはうけん影をのみ御手洗河(みたらしかは)の深き思(おもひ)をと詠ぜさせ給ふ時しもあれ、一急雨(ひとむらさめ)の過行(すぎゆく)程、木(こ)の下(した)露(つゆ)に立濡(たちぬれ)て、御袖(おんそで)もしほれたるに、「日も早暮(くれ)ぬ。」と申(まうす)声して、御車(おんくるま)を轟(とどろ)かして一条を西へ過(すぎ)させ給ふに、誰(た)が栖宿(すむやど)とは不知、墻(かき)に苔(こけ)むし瓦(かはら)に松生(おひ)て、年久(ひさし)く住荒(すみあら)したる宿(やど)の物さびし気(げ)なるに、撥音(ばちおと)気高(けだか)く青海波(せいがいは)をぞ調(しら)べたる。「怪(あや)しや如何なる人なるらん。」と、洗墻に御車(おんくるま)を駐(とど)めさせて、遥(はるか)に見入(いれ)させ給ひたれば、見る人有(あり)とも不知体(てい)にて、暮居(くれゐる)空の月影の、時雨(しぐれ)の雲間(くもま)より幽々(ほのぼの)と顕(あらは)れ出(いで)たるに、御簾(みす)を高く巻上(まきあげ)て、年の程二八許(ばかり)なる女房の、云(いふ)ばかりなくあてやかなるが、秋の別(わかれ)を慕ふ琵琶を弾(だん)ずるにてぞ有(あり)ける。鉄砕珊瑚一両曲、氷写玉盤千万声、雑錯(かきみだし)たる其(その)声は、庭の落葉(おちば)に紛(まぎれ)つゝ、外(よそ)には降らぬ急雨(むらさめ)に、袖渋(しほ)る許(ばかり)にぞ聞へたる。宮御目も文(あや)に熟々(つくつく)と御覧ずるに、此(この)程漫(そぞろ)に御心(おんこころ)を尽して、夢にもせめて逢(あひ)見ばやと、恋悲(こひかなし)み給ひつる似絵(にせゑ)に少しも不違、尚あてやかに臈闌(らふたけ)て、云はん方なくぞ見へたりける。御心地(おんここち)空(そら)に浮(うかれ)て、たど/\しき程(ほど)に成(なら)せ給へば、御車(おんくるま)より下(おり)させ給(たまひ)て、築山(つきやま)の松の木陰(こかげ)の立寄(たちよら)せ給へば、女房見る人有(あり)と物侘(ものわび)し気(げ)にて、琵琶をば几帳(きちやう)の傍(かたは)らに指寄(さしよ)せて内へ紛(まぎ)れ入(いり)ぬ。引(ひく)や裳裾(もすそ)の白地(あからさま)なる面影(おもかげ)に、又立出(たちいづ)る事もやとて、立徘徊(たちやすら)はせ給(たまひ)たれば、怪(あやし)げなる御所侍(ごしよさぶらひ)の、御隔子進(みかうしまゐら)する音して、早人定(しづま)りぬれば、何迄(いつまで)角(かく)ても可有とて、宮還御成(くわんぎよなり)ぬ。絵にかきたりし形(かたち)にだに、御心(おんこころ)を悩(なやま)されし御事(おんこと)也(なり)。まして実(まこと)の色を被御覧て、何(いか)にせんと恋忍(こひしの)ばせ給(たまふ)も理(ことわり)哉(かな)。其後(そののち)よりは太(ひた)すらなる御気色(おんけしき)に見へながら、流石(さすが)御詞(おんことば)には不被出けるに、常に御会(ぎよくわい)に参り給ふ二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)為冬(ためふゆ)、「何(いつ)ぞや賀茂の御帰(おんかへ)さの、幽(ほのか)なりし宵(よひ)の間(ま)の月、又も御覧ぜまぼしく被思召にや。其(その)事(こと)ならば最(いと)安き事にてこそ侍(はんべ)るめれ。彼(か)の女房の行末を委(くはしく)尋(たづね)て候へば、今出河(いまでがはの)右大臣公顕(きんあき)の女(むすめ)にて候なるを、徳大寺(とくだいじの)左大将に乍申名、未(いまだ)皇太后宮(くわうたいごうぐう)の御匣(みくしげ)にて候なる。切(せつ)に思召(おぼしめさ)れ候はゞ、歌の御会(ぎよくわい)に申寄(まうしよせ)て彼亭(かのてい)へ入(いら)せ給(たまひ)て、玉垂(たまだれ)の隙(ひま)にも、自(みづから)御心(おんこころ)を露(あらは)す御事(おんこと)にて候へかし。」と申せば、宮例(れい)ならず御快(おんこころよ)げに打笑(うちわらは)せ給(たまひ)て、「軈(やがて)今夜其亭(そのてい)にて可有褒貶御会。」と、右大臣の方へ被仰出ければ、公顕(きんあき)忝(かたじけなし)と取りきらめきて、数寄(すき)の人余(あま)た集(あつめ)て、角(かく)と案内申せば、宮は為冬許(ばかり)を御供(おんとも)にて、彼亭(かのてい)へ入(いら)せ給(たまひ)ぬ。哥の事は今夜さまでの御本意(ごほんい)ならねば、只披講許(ひかうばかり)にて、褒貶(はうへん)はなし。主(あるじ)の大臣(おとど)こゆるぎの急ぎありて、土器(かはらけ)もて参りたれば、宮(みや)常よりも興(きよう)ぜさせ給(たまひ)て、郢曲絃歌(えいきよくげんか)の妙々(たへたへ)に、御盃(さかづき)給はせ給ひたるに、主(あるじ)も痛く酔臥(よひふし)ぬ。宮も御枕(おんまくら)を傾(かたむけ)させ給へば、人皆定(しづま)りて夜も已(すで)に深(ふけ)にけり。媒(なかだち)の左中将(さちゆうじやう)心有(あつ)て酔(よは)ざりければ、其(その)案内せさせて、彼(かの)女房の栖(すみ)ける西の台(たい)へ忍入(しのびいら)せ給(たまひ)て、墻(かき)の隙(ひま)より見給へば、灯(ともしび)の幽(かすか)なるに、花紅葉(はなもみぢ)散乱(ちりみだれ)たる屏風(びやうぶ)引回(ひきまは)し、起(おき)もせず寝(ね)もせぬ体(てい)に打濡(うちしをれ)、只今人々の読(よみ)たりつる哥の短冊(たんじやく)取出(とりいだ)して、顔打傾(うちかたむ)けたれば、こぼれ懸りたる鬢(びん)の端(はづ)れより、匂(にほ)やかに幽(ほのか)なる容(かほば)せ、露を含める花の曙(あけぼの)、風に随へる柳の夕の気色(けしき)、絵に書共(かくとも)筆も難及、語るに言(ことば)も無(なか)るべし。外(よそ)ながら幽(ほのか)に見てし形(かたち)の、世に又類(たぐ)ひもやあらんと、怪(あや)しきまでに思ひしは、尚(なほ)数(かず)ならざりけりと御覧じ居給ふに、御心(おんこころ)も早ほれ/゛\と成(なつ)て、不知我が魂(たましひ)も其(その)袖の中にや入(いり)ぬらんと、ある身ともなく覚(おぼえ)させ給ふ。時節(をりふし)辺(あたり)に人も無(なく)て、灯(ともしび)さへ幽(かすか)なれば、妻戸(つまど)を少し押開(おしあけ)て内へ入(いら)せ給(たまひ)たるに、女(をんな)は驚く貌(かたち)にも非(あら)ず、閑(のど)やかにもてなして、やはら衣(きぬ)引被(ひきかづい)て臥(ふし)たる化妝(けはひ)、云(いひ)知らずなよやかに閑麗(みやびやか)なり。宮も傍(そば)に寄伏給(よりふさせたまひ)て、有(あり)しながらの心尽(づく)し、哀(あはれ)なる迄に聞へけれ共(ども)、女はいらへも申さず、只思(おもひ)にしほれたる其気色(そのけしき)、誠(まこと)に匂(にほひ)深(ふかう)して、花薫(かを)り月霞(かす)む夜の手枕(たまくら)に、見終(はて)ぬ夢の化(おもかげ)ある御心(おんこころ)迷(まよひ)に、明(あく)るも不知語(かたら)ひ給へ共(ども)、尚(なほ)強顔(つれなき)気色(けしき)にて程経(へ)ぬれば、己(おのれ)が翅(つばさ)を並(なら)べながら人の別(わかれ)をも思知(おもひしら)ぬ八声(やこゑ)の鳥も告(つげ)渡り、涙の氷解(とけ)やらず、衣々(きぬぎぬ)も冷(ひや)やかに成(なり)て、類(たぐひ)も怨(つら)き在明(ありあけ)の、強顔(つれなき)影(かげ)に立帰(たちかへら)せ給(たまひ)ぬ。其後(そののち)より度々(たびたび)御消息(ごせうそく)有(あつ)て、云(いふ)ばかりなき御文(おんふみ)の数(かず)、早千束(ちづか)にも成(なり)ぬ覧(らん)と覚(おぼゆ)る程(ほど)に積(つも)りければ、女も哀(あはれ)なる方に心引(ひか)れて、のぼれば下(くだ)る稲舟(いなふね)の、否(いな)には非(あら)ずと思へる気色(けしき)になん顕(あらは)れたり。され共(ども)尚(なほ)互に人目を中(なか)の関守(せきもり)になして、月比(つきごろ)過(すぎ)させ給(たまひ)けるに、式部(しきぶの)少輔(せう)英房(ひでふさ)と云(いふ)儒者、御文談(ごぶんだん)に参じて、貞観政要(ぢやうぐわんせいえう)を読(よみ)けるに、「昔唐(たう)の太宗、鄭仁基(ていじんき)が女(むすめ)を后(きさき)に備(そな)へ、元和殿(げんわてん)に冊入(かしづきいれ)んとし玉(たま)ひしを、魏徴(ぎちよう)諌(いさめ)て、「此女(このむすめ)は已(すで)に陸氏(りくし)に約(やく)せり」と申せしかば、太宗其諌(そのいさめ)に随(したがつ)て、宮中に召(めさ)るゝ事を休(や)め給(たまひ)き。」と談(だん)じけるを、宮熟々(つくつく)と聞召(きこしめし)て、何(いか)なれば古(いにしへ)の君は、かく賢人の諌(いさめ)に付(つい)て、好色心を棄給(すてたまひ)けるぞ。何(いか)なる我なれば、已(すで)に人の云名付(いひなづけ)て事定(さだま)りたる中(なか)をさけて、人の心を破(やぶ)るらん。古の様(ためし)を恥(はぢ)、世の譏(そしり)を思食(おぼしめし)て、只御心(おんこころ)の中(うち)には恋悲(こひかなし)ませ給ひけれ共(ども)、御詞(おんことば)には不被出、御文(おんふみ)をだに書絶(かきたえ)て、角(かく)とも聞へねば、百夜(ももよ)の榻(しぢ)の端書(はしがき)、今は我や数(かず)書(かか)ましと打侘(うちわび)て、海士(あま)の刈藻(かるも)に思乱(おもひみだれ)給ふ。角(かく)て月日も過(すぎ)ければ、徳大寺此(この)事(こと)を聞及(ききおよび)、「左様(さやう)に宮なんどの御心(おんこころ)に懸(かけ)られんを、争(いか)でか便(びん)なうさる事可有。」とて、早(はや)あらぬ方に通(かよ)ふ道有(あり)と聞へければ、宮も今は無御憚、重(かさね)て御文(おんふみ)の有(あり)しに、何よりも黒(くろ)み過(すぎ)て、知(しら)せばや塩やく浦の煙(けぶり)だに思はぬ風になびく習(なら)ひを女(をんな)もはや余(あま)りに強顔(つれな)かりし心の程、我ながら憂(うき)物に思ひ返す心地(ここち)になん成(なり)にければ、詞(ことば)は無(なく)て、立(たち)ぬべき浮(うき)名を兼(かね)て思はずは風に烟(けぶり)のなびかざらめや其後(そののち)よりは、彼方此方(かなたこなた)に結(むす)び置(おか)れし心の下紐(したひぼ)打解(うちとけ)て、小夜(さよ)の枕を河島の、水の心も浅からぬ御契(おんちぎり)に成(なり)しかば、生(いき)ては偕老(かいらう)の契(ちぎり)深く、又死(しし)ては同苔(おなじこけ)の下にもと思召通(おぼしめしかよは)して、十月(とつき)余(あま)りに成(なり)にけるに、又天下の乱(らん)出来(いできたつ)て、一宮(いちのみや)は土佐(とさ)の畑(はた)へ被流させ給(たまひ)しかば、御息所(みやすどころ)は独(ひとり)都に留(とどま)らせ給(たまひ)て、明(あく)るも不知歎き沈(しづま)せ給(たまひ)て、せめてなき世の別(わかれ)なりせば、憂(うき)に堪(たへ)ぬ命にて、生(うま)れ逢(あは)ん後の契(ちぎり)を可憑に、同(おなじ)世ながら海山を隔(へだ)てゝ、互に風の便(たより)の音信(おとづれ)をだにも書絶(かきたえ)て、此日比(このひごろ)召仕(めしつか)はれける青侍(せいし)・官女(くわんぢよ)の一人も参り通はず、万(よろ)づ昔に替(かは)る世に成(なつ)て、人の住荒(すみあら)したる蓬生(よもぎふ)の宿(やど)の露けきに、御袖(おんそで)の乾(かわ)く隙(ひま)もなく、思召入(おぼしめしいら)せ給ふ御有様(おんありさま)、争(いか)でか涙の玉の緒(を)も存(ながら)へぬ覧(らん)と、怪(あやし)き程の御事(おんこと)也(なり)。宮も都を御出(おんいで)有(あり)し日より、公(きみ)の御事(おんこと)御身(おんみ)の悲(かなし)み、一方(ひとかた)ならず晴(はれ)やらぬに、又打添(うちそひ)て御息所(みやすどころ)の御名残(おんなごり)、是(これ)や限(かぎり)と思召(おぼしめし)しかば、供御(くご)も聞召入(きこしめしいれ)られず、道の草葉(くさば)の露共(とも)に、消(きえ)はてさせ給(たまひ)ぬと見へさせ給ふ。惜共(をししとも)思食(おぼしめさ)ぬ御命長(なが)らへて、土佐(とさ)の畑(はた)と云(いふ)所の浅猿(あさまし)く、此(この)世の中とも覚(おぼ)へぬ浦の辺(あたり)に流されて、月日を送らせ給へば、晴るゝ間(ま)もなき御歎(おんなげき)、喩(たと)へて云(いは)ん方(かた)もなし。余(あま)りに思(おもひ)くづほれさせ給ふ御有様(おんありさま)の、御痛敷(おんいたはしく)見奉りければ、御警固(おんけいご)に候(さふらひ)ける有井庄司(ありゐのしやうじ)、「何(なに)か苦(くるし)く候べき。御息所(みやすどころ)を忍(しのん)で此(これ)へ入進(いれまゐら)せられ候へ。」とて、御衣(おんきぬ)一重(ひとかさね)し立(たて)て、道の程の用意(ようい)迄細々(さいさい)に沙汰し進(まゐら)せければ、宮無限喜(うれ)しと思召(おぼしめし)て、只一人召仕(めしつかは)れける右衛門(うゑもん)府生(ふしやう)秦武文(はだのたけふん)と申(まうす)随身(ずゐじん)を、御迎(おんむかひ)に京へ上(のぼ)せらる。武文(たけふん)御文(おんふみ)を給(たまはり)て、急(いそぎ)京都へ上(のぼ)り、一条堀川(いちでうほりかは)の御所へ参りたれば、葎(むぐら)茂りて門(かど)を閉(とぢ)、松の葉積りて道もなし。音信通(おとづれかよ)ふものとては、古き梢(こづゑ)の夕嵐(ゆふあらし)、軒もる月の影ならでは、問(とふ)人もなく荒(あれ)はてたり。さては何(いづ)くにか立忍(たちしの)ばせ給(たまひ)ぬらんと、彼方此方(あなたこなた)の御行末を尋行(たづねゆく)程(ほど)に、嵯峨の奥深草(ふかくさ)の里に、松の袖垣(そでがき)隙(ひま)あらはなるに、蔦(つた)はい懸(かかり)て池の姿も冷愁(さびし)く、汀(みぎは)の松の嵐も秋冷(すさまじ)く吹(ふき)しほりて、誰(たれ)栖(すみ)ぬらんと見るも懶(ものう)げなる宿の内に、琵琶を弾(だん)ずる音しけり。怪(あや)しやと立留(たちどまつ)て、是(これ)を聞(きけ)ば、紛(まぎら)ふべくもなき御撥音(ばちおと)也(なり)。武文(たけふん)喜(うれ)しく思ひて、中々(なかなか)案内も不申、築地(ついぢ)の破(やぶ)れより内へ入(いつ)て、中門(ちゆうもん)の縁(えん)の前に畏(かしこま)れば、破(やぶ)れたる御簾(みす)の内より、遥(はるか)に被御覧、「あれや。」と許(ばかり)の御声幽(かすか)に聞へながら、何共(なんとも)被仰出事もなく、女房達(にようばうたち)数(あま)たさゞめき合ひて、先(まづ)泣(なく)声のみぞ聞へける。「武文(ためふん)御使(おんつかひ)に罷上(まかりのぼ)り、是(これ)迄尋(たづね)参りて候。」と申(まうし)も不敢、縁(えん)に手を打懸(うちかけ)てさめ/゛\と泣(なき)居たり。良有(ややあつ)て、「只此迄(これまで)。」と召(めし)あれば、武文(たけふん)御簾(みす)の前に跪(ひざまづ)き、「雲井の外(よそ)に想像進(おもひやりまゐ)らするも、堪忍(たへしの)び難(がた)き御事(おんこと)にて候へば、如何にもして田舎(ゐなか)へ御下(おんくだ)り候へとの御使(おんつかひ)に参(まゐり)て候。」とて、御文(おんふみ)を捧(ささげ)たり。急ぎ披(ひらい)て御覧ぜらゝるに、げにも御思ひの切(せつ)なる色さもこそと覚(おぼえ)て、言(こと)の葉毎(はごと)に置(おく)露の、御袖(おんそで)に余(あま)る許(ばかり)なり。「よしや何(いか)なる夷(ひな)の栖居(すまひ)なりとも、其憂(そのうき)にこそ責(せめ)ては堪(たへ)め。」とて、既(すで)に御門出(おんかどで)有(あり)ければ、武文(たけふん)甲斐々々敷(かひがひしく)御輿(おんこし)なんど尋出(たづねいだ)し、先(まづ)尼崎(あまがさき)まで下(くだ)し進(まゐら)せて、渡海(とかい)の順風をぞ相待(あひまち)ける。懸(かか)りける折節(をりふし)、筑紫人(つくしひと)に松浦(まつら)五郎と云(いひ)ける武士(ぶし)、此(この)浦に風を待(まち)て居たりけるが、御息所(みやすどころ)の御形(かたち)を垣(かき)の隙(ひま)より見進(まゐら)せて、「こはそも天人の此(この)土へ天降(あまくだ)れる歟(か)。」と、目枯(めがれ)もせず守(まも)り居たりけるが、「穴(あな)無端や。縦(たとひ)主(ぬし)ある人にてもあれ、又何(いか)なる女院(にようゐん)・姫宮(ひめみや)にても坐(おはし)ませ。一夜(いちや)の程(ほど)に契(ちぎり)を、百年の命に代(かへ)んは何(なに)か惜(をし)からん。奪取(うばひとつ)て下(くだ)らばや。」と思(おもひ)ける処に、武文(たけふん)が下部(しもべ)の浜の辺(あたり)に出(いで)て行(ゆき)けるを呼寄(よびよせ)て、酒飲(のま)せ引出物(ひきでもの)なんど取(とら)せて、「さるにても御辺(ごへん)が主(あるじ)の具足(ぐそく)し奉(たてまつ)て、船に召(めさ)せんとする上臈(じやうらふ)は、何(いか)なる人にて御渡(おんわたり)あるぞ。」と問(とひ)ければ、下臈(げらふ)の墓(はか)なさは、酒にめで引出物(ひきでもの)に耽(ふけ)りて、事の様(やう)有(あり)の侭(まま)にぞ語りける。松浦大(おほき)に悦(よろこん)で、「此比(このごろ)何(いか)なる宮にても御座(おは)せよ、謀反人(むほんにん)にて流され給へる人の許(もと)へ、忍(しのん)で下給(くだりたま)はんずる女房を、奪捕(うばひとつ)たり共(とも)、差(さし)ての罪科(ざいくわ)はよも非じ。」と思(おもひ)ければ、郎等共(らうどうども)に彼宿(かのやど)の案内能々(よくよく)見置(おか)せて、日の暮(くる)るをぞ相待(あひまち)ける。夜既(すで)に深(ふけ)て人定(しづま)る程(ほど)に成(なり)ければ、松浦が郎等(らうどう)三十(さんじふ)余人(よにん)、物具(もののぐ)ひし/\と堅めて、続松(たいまつ)に火を立(たて)て蔀(しとみ)・遣戸(やりど)を蹈破(ふみやぶ)り、前後より打(うつ)て入(いる)。武文(たけふん)は京家(きやうけ)の者と云(いひ)ながら、心剛(かう)にして日比(ひごろ)も度々(どど)手柄(てがら)を顕(あらは)したる者なりければ、強盜(がうだう)入(いり)たりと心得て、枕に立(たて)たる太刀をゝつ取(とつ)て、中門(ちゆうもん)に走出(わしりいで)て、打入(うちいる)敵三人(さんにん)目の前に切(きり)臥せ、縁(えん)にあがりたる敵三十(さんじふ)余人(よにん)大庭へ颯(さつ)と追出(おひだ)して、「武文(たけふん)と云(いふ)大剛(だいかう)の者此(これ)にあり。取(とら)れぬ物を取らんとて、二(ふた)つなき命を失(うしなふ)な、盜人共(ぬすぶとども)。」と■(あざけつ)て、仰(のつ)たる太刀を押直(おしなほ)し、門(もん)の脇(わき)にぞ立(たつ)たりける。松浦が郎等共(らうどうども)武文(たけふん)一人に被切立て、門より外(そと)へはつと逃(にげ)たりけるが、「蓬(きたな)し。敵は只一人ぞ。切(きつ)て入(いれ)。」とて、傍(そば)なる在家(ざいけ)に火を懸(かけ)て、又喚(をめい)てぞ寄(よせ)たりける。武文(たけふん)心は武(たけ)しといへ共(ども)、浦風に吹覆(ふきおほ)はれたる烟(けむり)に目暮(くれ)て、可防様(やう)も無(なか)りければ、先(まづ)御息所(みやすどころ)を掻負進(かいおひまゐら)せ、向ふ敵を打払(うちはらつ)て、澳(おき)なる船を招き、「何(いか)なる舟にてもあれ、女性(によしやう)暫(しばらく)乗進(のせまゐら)せてたび候へ。」と申(まうし)て、汀(みぎは)にぞ立(たち)たりける。舟しもこそ多かるに、松浦が迎(むかひ)に来たる舟是(これ)を聞(きい)て、一番に渚(なぎさ)へ差寄(さしよせ)たれば、武文(たけふん)大(おほき)に悦(よろこん)で、屋形(やかた)の内に打置(うちおき)奉り、取落(とりおと)したる御具足(ぐそく)、御伴(おんとも)の女房達(にようばうたち)をも、舟に乗(のせ)んとて走帰(わしりかへり)たれば、宿(やど)には早(はや)火懸(かかつ)て、我方様(わがかたざま)の人もなく成(なり)にけり。松浦は適(たまたま)我(わが)舟に此(この)女房の乗(のら)せ給(たまひ)たる事(こと)、可然契(ちぎり)の程哉(かな)と無限悦(よろこび)て、「是(これ)までぞ。今は皆舟に乗れ。」とて、郎等(らうどう)・眷属(けんぞく)百(ひやく)余人(よにん)、捕(とる)物も不取敢、皆此(この)舟に取乗(とりのつ)て、眇(はるか)の澳(おき)にぞ漕出(こぎいだ)したる。武文(たけふん)渚(なぎさ)に帰来(かへりきたつ)て、「其(その)御舟(おんふね)被寄候へ。先(さき)に屋形(やかた)の内に置進(おきまゐら)せつる上臈(じやうらふ)を、陸(くが)へ上進(あげまゐら)せん。」と喚(よばは)りけれども、「耳にな聞入(ききいれ)そ。」とて、順風に帆を上(あげ)たれば、船は次第に隔(へだた)りぬ。又手繰(てぐり)する海士(あま)の小船に打乗(うちのつ)て、自(みづから)櫓(ろ)を推(おし)つゝ、何共(なんとも)して御舟(おんふね)に追著(おひつか)んとしけれ共(ども)、順風を得たる大船に、押手(おして)の小舟非可追付。遥(はるか)の沖に向(むかつ)て、挙扇招きけるを、松浦が舟にどつと笑(わらふ)声を聞(きい)て、「安からぬ者哉(かな)。其(その)儀ならば只今の程(ほど)に海底(かいてい)の竜神(りゆうじん)と成(なつ)て、其(その)舟をば遣(やる)まじき者を。」と忿(いかつ)て、腹十文字(じふもんじ)に掻切(かききつ)て、蒼海(さうかい)の底にぞ沈(しづみ)ける。御息所(みやすどころ)は夜討の入(いり)たりつる宵の間(ま)の騒(さわぎ)より、肝心(きもたましひ)も御身(おんみ)に不副、只夢の浮橋(うきはし)浮沈(うきしづみ)、淵瀬をたどる心地して、何(なん)と成行(なりゆく)事(こと)共(とも)知(しら)せ給はず。舟の中なる者共(ものども)が、「あはれ大剛(だいかう)の者哉(かな)。主(あるじ)の女房を人に奪はれて、腹を切(きり)つる哀(あはれ)さよ。」と沙汰するを、武文(たけふん)が事やらんとは乍聞召、其方(そのかた)をだに見遣(やら)せ給はず。只衣(きぬ)引被(ひきかづい)て屋形の内に泣沈(なきしづ)ませ給ふ。見るも恐ろしくむくつけ気(げ)なる髭男(ひげをとこ)の、声最(いと)なまりて色飽(あく)まで黒きが、御傍(おんそば)に参(まゐつ)て、「何をかさのみむつからせ給ふぞ。面白き道すがら、名所共(めいしよども)を御覧じて御心(おんこころ)をも慰(なぐさ)ませ給(たまひ)候へ。左様(さやう)にては何(いか)なる人も船には酔(よふ)物にて候ぞ。」と、兎角(とかく)慰め申せ共(ども)、御顔をも更(さらに)擡(もたげ)させ給はず、只鬼を一車(ひとつくるま)に載せて、巫(ぶ)の三峡(さんかふ)に棹(さをさ)すらんも、是(これ)には過(すぎ)じと御心(おんこころ)迷ひて、消入(きえいら)せ給(たまひ)ぬべければ、むくつけ男も舷(ふなばた)に寄懸(よりかかつ)て、是(これ)さへあきれたる体(てい)なり。其(その)夜は大物(だいもつ)の浦に碇(いかり)を下(おろ)して、世を浦風に漂(ただよ)ひ給ふ。明(あく)れば風能成(よくなり)ぬとて、同じ泊(とま)りの船共(ふねども)、帆を引(ひき)梶(かぢ)を取り、己(おの)が様々(さまざま)漕(こぎ)行けば、都は早迹(あと)の霞に隔(へだた)りぬ。九国にいつか行著(ゆきつか)んずらんと、人の云(いふ)を聞召(きこしめ)すにぞ、さては心つくしに行(ゆく)旅也(なり)と、御心(おんこころ)細きに付(つけ)ても、北野天神荒人神(あらひとがみ)に成(なら)せ給(たまひ)し其古(そのいにし)への御悲(おんかなし)み、思召知(おぼしめししら)せ給(たま)はゞ、我を都へ帰し御座(おはしま)せと、御心(おんこころ)の中(うち)に祈(いのら)せ給(たまふ)。其(その)日(ひ)の暮(くれ)程(ほど)に、阿波の鳴戸(なると)を通る処に、俄に風替(かは)り塩向(むか)ふて、此(この)船更に不行遣。舟人(ふなうど)帆を引(ひい)て、近辺の礒へ舟を寄(よせ)んとすれば、澳(おき)の塩合(しほあひ)に、大(おほき)なる穴の底も見へぬが出(いで)来て、舟を海底に沈(しづめ)んとす。水主(すゐしゆ)梶取(かんどり)周章(あわて)て帆薦(ほごも)なんどを投入(なげいれ)々々(なげいれ)渦(うづ)に巻(まか)せて、其間(そのま)に船を漕(こぎ)通さんとするに、舟曾(かつて)不去。渦巻くに随(したがつ)て浪と共に舟の廻(めぐ)る事(こと)、茶臼(ちやうす)を推(おす)よりも尚(なほ)速(すみやか)也(なり)。「是(これ)は何様(いかさま)竜神(りゆうじん)の財宝に目(め)懸(かけ)られたりと覚(おぼ)へたり。何をも海へ入(いれ)よ。」とて、弓箭(ゆみや)・太刀・々(かたな)・鎧・腹巻、数(かず)を尽(つく)して投入(なげいれ)たれ共(ども)、渦巻(うづまく)事(こと)尚(なほ)不休。「さては若(もし)色ある衣裳(いしやう)にや目を見入(いれ)たるらん。」とて、御息所(みやすどころ)の御衣(おんきぬ)、赤き袴を投入(なげいれ)たれば、白浪(しらなみ)色変(へん)じて、紅葉(もみぢ)を浸(ひた)せるが如くなり。是(これ)に渦巻(うづま)き少し閑(しづ)まりたれ共(ども)、船は尚(なほ)本(もと)の所にぞ回居(めぐりゐ)たる。角(かく)て三日三夜に成(なり)ければ、舟の中の人独(ひとり)も不起上、皆船底(ふなぞこ)に酔臥(よひふし)て、声々に呼叫(をめきさけ)ぶ事無限。御息所(みやすどころ)は、さらでだに生(いけ)る御心地(おんここち)もなき上に、此(この)浪の騒(さわぎ)になを御肝(おんきも)消(きえ)て、更に人心(ここち)も坐(ましま)さず。よしや憂目(うきめ)を見んよりは、何(いか)なる淵瀬にも身を沈めばやとは思召(おぼしめし)つれ共(ども)、さすがに今を限(かぎり)と叫ぶ声を聞召(きこしめ)せば、千尋(ちひろ)の底の水屑(みくづ)と成(なり)、深き罪に沈(しずみ)なん後(のち)の世をだに誰かは知(しり)て訪(と)はんと思召(おぼしめ)す涙さへ尽(つき)て、今は更に御(み)くしをも擡(もたげ)させ給はず。むくつけ男(をとこ)も早忙然(ばうぜん)と成(なつ)て、「懸(かか)る無止事貴人を取(とり)奉り下(くだ)る故(ゆゑ)に、竜神(りゆうじん)の咎(とが)めもある哉(や)らん。無詮事をもしつる者哉(かな)。」と誠(まこと)に後悔の気色(けしき)なり。斯(かか)る処に梶取(かんどり)一人船底(ふなぞこ)より這出(はひいで)て、「此鳴渡(このなると)と申(まうす)は、竜宮城(りゆうぐうじやう)の東門(とうもん)に当(あたつ)て候間、何(なに)にても候へ、竜神(りゆうじん)の欲(ほ)しがらせ給ふ物を、海へ沈め候はねば、いつも加様(かやう)の不思議(ふしぎ)ある所にて候は、何様(いかさま)彼(かの)上臈を龍神の思懸申(おもひかけまう)されたりと覚(おぼ)へ候。申(まうす)も余(あまり)に邪見(じやけん)に無情候へ共(ども)、此御事(このおこと)独(ひとり)の故(ゆゑ)に若干(そくばく)の者共(ものども)が、皆非分の死を仕らん事は、不便(ふびん)の次第にて候へば、此上臈(このじやうらふ)を海へ入進(いれまゐら)せて、百(ひやく)余人(よにん)の命を助させ給へ。」とぞ申(まうし)ける。松浦(まつら)元来無情田舎人(ゐなかうど)なれば、さても命や助かると、屋形(やかた)の内へ参(まゐつ)て、御息所(みやすどころ)を荒らかに引起し奉り、「余(あまり)に強顔(つれなき)御気色(おんけしき)をのみ見奉るも、無本意存(ぞんじ)候へば、海に沈め進(まゐら)すべきにて候。御契(おんちぎり)深くば土佐(とさ)の畑(はた)へ流れよらせ給ひて、其宮(そのみや)とやらん堂(だう)とやらん、一つ浦に住(すま)せ給へ。」とて、無情掻抱(かきだ)き進(まゐら)せて、海へ投入奉(なげいれたてまつら)んとす。是(これ)程の事に成(なつ)ては、何(なん)の御詞(おんことば)か可有なれば、只夢の様(やう)に思召(おぼしめ)して、つや/\息をも出(いだ)させ給はず、御心(おんこころ)の中(うち)に仏の御名許(みなばかり)を念じ思召(おぼしめし)て、早絶入(たえいら)せ給(たまひ)ぬるかと見へたり。是(これ)を見て僧の一人便船(びんせん)せられたりけるが、松浦(まつら)が袖を磬(ひかへ)て、「こは如何なる御事(おんこと)にて候ぞや。竜神(りゆうじん)と申(まうす)も、南方無垢(むく)の成道(じやうだう)を遂(とげ)て、仏の授記(じゆき)を得たる者にて候へば、全く罪業の手向(たむけ)を不可受。而(しか)るを生(いき)ながら人を忽(たちまち)に海中に沈められば、弥(いよいよ)竜神(りゆうじん)忿(いかつ)て、一人も助(たすか)る者や候べき。只経(きやう)を読み陀羅尼(だらに)を満(みて)て法楽に備(そなへ)られ候はんずるこそ可然覚(おぼ)へ候へ。」と、堅く制止(せいし)宥(なだ)めければ、松浦理(ことわり)に折(をれ)て、御息所(みやすどころ)を篷屋(とまや)の内に荒らかに投棄(なげすて)奉る。「さらば僧の儀に付(つい)て祈りをせよや。」とて、船中の上下異口同音(いくどうおん)に観音の名号(みやうがう)を唱(となへ)奉りける時、不思議(ふしぎ)の者共(ものども)波の上に浮(うか)び出(いで)て見へたり。先(まづ)一番に退紅(こきくれなゐ)著たる仕丁(じちやう)が、長持を舁(かき)て通ると見へて打失(うちうせ)ぬ。其次(そのつぎ)に白葦毛(しらあしげ)の馬に白鞍(しらくら)置(おき)たるを、舎人(とねり)八人して引(ひき)て通ると見へて打失(うちうせ)ぬ。其(その)次に大物(だいもつ)の浦にて腹切(きつ)て死(しし)たりし、右衛門(うゑもんの)府生(ふしやう)秦武文(はだのたけふん)、赤糸威(あかいとをどし)の鎧、同毛(おなじけ)の五枚甲(ごまいかぶと)の緒(を)を縮(しめ)、黄■毛(きつきげ)なる馬に乗(のつ)て、弓杖(ゆんづゑ)にすがり、皆紅(みなくれなゐ)の扇(あふぎ)を挙げ、松浦が舟に向(むかつ)て、其(その)舟留(と)まれと招く様(やう)に見へて、浪の底にぞ入(いり)にける。梶取(かんどり)是(これ)を見て、「灘(なだ)を走る舟に、不思議(ふしぎ)の見ゆる事は常の事にて候へ共(ども)、是(これ)は如何様(いかさま)武文(たけふん)が怨霊(をんりやう)と覚(おぼ)へ候。其験(そのしるし)を御覧ぜん為に、小船を一艘(いつさう)下(おろ)して此(この)上臈を乗進(のせまゐら)せ、波の上に突流(つきなが)して、竜神(りゆうじん)の心を如何と御覧(ごらん)候へかし。」と申せば、「此(この)儀げにも。」とて、小船を一艘(いつさう)引下(ひきおろ)して、水手(すゐしゆ)一人と御息所(みやすどころ)とを乗せ奉(たてまつ)て、渦(うづ)の波に漲(みなぎつ)て巻却(まきかへ)る波の上にぞ浮べける。彼早離(かのさうり)・速離(そくり)の海岸山(かいがんさん)に被放、「飢寒(きかん)の愁(うれへ)深(ふかく)して、涙も尽(つき)ぬ。」と云(いひ)けんも、人住(すむ)島(しま)の中なれば、立寄(たちよる)方(かた)も有(あり)ぬべし。是(これ)は浦にも非(あら)ず、島にも非(あら)ず、如何に鳴渡(なると)の浪の上に、身を捨舟(すてぶね)の浮(うき)沈み、塩瀬(しほせ)に回(めぐ)る泡(うたかた)の、消(きえ)なん事こそ悲(かなし)けれ。されば竜神(りゆうじん)もゑならぬ中をや被去けん。風俄に吹分(ふきわけ)て、松浦が舟は西を指(さ)して吹(ふか)れ行(ゆく)と見へけるが、一(いち)の谷の澳津(おきつ)より武庫山下風(むこやまおろし)に被放て、行方(ゆきかた)不知成(なり)にけり。其後(そののち)浪静(しづま)り風止(やみ)ければ、御息所(みやすどころ)の御船(おんふね)に被乗つる水主(すゐしゆ)甲斐々々敷(かひがひしく)舟を漕寄(こぎよせ)て、淡路(あはぢ)の武島(むしま)と云(いふ)所へ著(つけ)奉り、此(この)島の為体(ていたらく)、回(まはり)一里に足(たら)ぬ所にて、釣する海士(あま)の家ならでは、住(すむ)人もなき島なれば、隙(ひま)あらはなる葦(あし)の屋(や)の、憂節(うきふし)滋(しげ)き栖(すみか)に入進(いれまゐら)せたるに、此(この)四五日の波風に、御肝(おんきも)消(きえ)御心(おんこころ)弱りて、軈(やが)て絶入(たえいら)せ給ひけり。心なき海人(あま)の子共(こども)迄も、「是(これ)は如何にし奉らん。」と、泣悲(なきかなし)み、御顔に水を灑(そそ)き、櫓床(ろどこ)を洗(あらう)て御口に入(いれ)なんどしければ、半時許(はんじばかり)して活出(いきいで)させ給へり。さらでだに涙の懸(かか)る御袖(おんそで)は乾く間(ま)も無(なか)るべきに、篷漏(とまも)る滴(しづく)藻塩草(もしほぐさ)、可敷忍旅寝(たびね)ならねば、「何迄(いつまで)角(かく)ても有佗(ありわ)ぶべき。土佐(とさ)の畑(はた)と云(いふ)浦へ送りてもやれかし。」と、打佗(うちわび)させ給へば、海士共(あまども)皆同じ心に、「是(これ)程厳敷(いつくしく)御渡(おんわたり)候上臈(じやうらふ)を、我等が舟に乗進(のせまゐら)せて、遥々(はるばる)と土佐迄送り進(まゐら)せ候はんに、何(いづく)の泊(とまり)にてか、人の奪取進(うばひとりまゐら)せぬ事の候べき。」と、叶(かなふ)まじき由を申せば、力(ちから)及ばせ給はずして、浪の立居(たちゐ)に御袖(おんそで)をしぼりつゝ、今年は此(ここ)にて暮し給ふ。哀(あはれ)は類(たぐ)ひも無(なか)りけり。さて一宮(いちのみや)は武文(たけふん)を京へ上(のぼ)せられし後(のち)は、月日遥(はるか)に成(なり)ぬれ共(ども)、何共(なんとも)御左右(おんさう)を申さぬは、如何なる目にも逢(あひ)ぬる歟(か)と、静心(しづごころ)なく思食(おぼしめし)て、京より下(くだ)れる人に御尋(おんたづね)有(あり)ければ、「去年の九月に御息所(みやすどころ)は都を御出(おんいで)有(あつ)て、土佐へ御下(おんくだ)り候(さふらひ)しとこそ慥(たしか)に承(うけたまは)りしか。」と申(まうし)ければ、さては道にて人に被奪ぬるか、又世を浦風に被放、千尋(ちひろ)の底にも沈(しづみ)ぬる歟(か)と、一方(ひとかた)ならず思ひくづほれさせ給(たまひ)けるに、或(ある)夜御警固(おんけいご)に参(まゐり)たる武士共(ぶしども)、中門(ちゆうもん)に宿直申(とのゐまうし)て四方山(よもやま)の事共(ことども)物語しける者の中に、「さるにても去年の九月、阿波の鳴渡(なると)を過(すぎ)て当国に渡りし時、船の梶(かぢ)に懸(かかり)たりし衣(きぬ)を取上(とりあげ)て見しかば、尋常(よのつね)の人の装束(しやうぞく)とも不見、厳(いつくし)かりし事よ。是(これ)は如何様(いかさま)院(ゐん)・内裏(だいり)の上臈女房(じやうらふにようばう)なんどの田舎(ゐなか)へ下(くだ)らせ給ふが、難風に逢(あう)て海に沈み給(たまひ)けん其(その)装束にてぞ有(ある)らん。」と語(かたつ)て、「穴(あな)哀(あはれ)や。」なんど申合(まうしあひ)ければ、宮墻越(かきごし)に被聞召、若(もし)其行末(そのゆくへ)にてや有(ある)らんと不審(ふしん)多く思食(おぼしめし)て、「聊(いささか)御覧ぜられたき御事(おんこと)あり。其衣(そのきぬ)未(いまだ)あらば持(もち)て参れ。」と御使(おんつかひ)有(あり)ければ、「色こそ損(そん)じて候へ共(ども)未(いまだ)私に候。」とて召寄進(めしよせまゐら)せたり。宮能々(よくよく)是(これ)を御覧ずるに、御息所(みやすどころ)を御迎(おんむかひ)に武文(たけふん)を京へ上(のぼ)せられし時、有井(ありゐの)庄司(しやうじ)が仕立(したて)て進(まゐら)せたりし御衣(おんきぬ)也(なり)。穴(あな)不思議(ふしぎ)やとて、裁余(たちあま)したる切(き)れを召出(めしいだ)して、差合(さしあは)せられたるに、あやの文(もん)少(すこし)も不違続(つづ)きたれば、二目共(ふためとも)不被御覧、此衣(このきぬ)を御顔に押当(おしあて)て、御涙(おんなみだ)を押拭(おしのご)はせ給ふ。有井(ありゐ)も御前(おんまへ)に候(さふらひ)けるが、涙を袖に懸(かけ)つゝ罷立(まかりたち)にけり。今は御息所(みやすどころ)の此(この)世に坐(ましま)す人とは露(つゆ)も不被思召、此衣(このきぬ)の橈(かぢ)に懸(かか)りし日を、なき人の忌日(きにち)に被定、自(みづから)御経(おんきやう)を書写(しよしや)せられ、念仏を唱(とな)へさせ給(たまひ)て、「過去聖霊(くわこしやうりやう)藤原氏女(うぢのむすめ)、並(ならびに)物故秦武文(もつこはだのたけふん)共(とも)に三界の苦海(くかい)を出(いで)て、速(すみやか)に九品(くぼん)の浄刹(じやうせつ)に到れ。」と祈らせ給ふ。御歎(おんなげき)の色こそ哀(あはれ)なれ。去(さる)程(ほど)に其(その)年の春(はる)の比(ころ)より、諸国に軍(いくさ)起(おこつ)て、六波羅(ろくはら)・鎌倉(かまくら)・九国・北国の朝敵共(てうてきども)、同時に滅びしかば、先帝は隠岐(おきの)国(くに)より還幸(くわんかう)成り、一宮(いちのみや)は土佐(とさ)の畑(はた)より都へ帰り入らせ給ふ。天下悉(ことごとく)公家一統(くげいつとう)の御世(みよ)と成(なつ)て目出(めでた)かりしか共(ども)、一宮(いちのみや)は唯御息所(みやすどころ)の今(この)世に坐(ましま)さぬ事を歎思食(なげきおぼしめし)ける処に、淡路(あはぢ)の武島(むしま)に未(いまだ)生(いき)て御坐(ござ)有(あり)と聞(きこ)へければ、急(いそぎ)御迎(おんむかひ)を被下、都へ帰上(かへりのぼ)らせ給ふ。只王質(わうしつ)が仙より出(いで)て七世の孫(まご)に会ひ、方士(はうし)が海に入(いつ)て楊貴妃(やうきひ)を見奉りしに不異。御息所(みやすどころ)は、「心づくしに趣(おもむき)し時の心憂(こころう)さ、浪に回(めぐ)りし泡(うたかた)の消(きゆ)るを争(あら)そう命の程、堪兼(たへかね)たりし襟(ものおもひ)は御推量(おんおしはか)りも浅くや。」とて、御袖(おんそで)濡(ぬる)る許(ばかり)なり。宮は又「外渡(とわた)る舟の梶(かぢ)の葉に、書共(かくとも)尽(つき)ぬ御歎(おんなげき)、無跡(なきあと)問(とひ)し月日の数(かず)、御身(おんみ)に積(つも)りし悲(かなし)みは、語るも言(こと)は愚(おろ)か也(なり)。」と書口説(かきくどか)せ給ひける。さしも憂(う)かりし世中(よのなか)の、時の間(ま)に引替(ひきかへ)て、人間の栄花(えいぐわ)、天上の娯楽、不極云(いふ)事(こと)なく、不尽云御遊(ぎよいう)もなし。長生殿(ちやうせいでん)の裏(うち)には、梨花(りくわ)の雨不破壌を、不老門(ふらうもん)の前には、楊柳(やうりう)の風不鳴枝。今日を千年(ちとせ)の始めと、目出(めでた)きためしに思食(おぼしめし)たりしに、楽(たのしみ)尽(つき)て悲(かなし)み来(きた)る人間の習(ならひ)なれば、中(なか)一年有(あつ)て、建武元年の冬の比(ころ)より又天下乱(みだれ)て、公家(くげ)の御世(みよ)、武家の成敗(せいばい)に成(なり)しかば、一宮(いちのみや)は終(つひ)に越前(ゑちぜんの)金崎(かねがさき)の城にて御自害(ごじがい)有(あつ)て、御首(おんくび)京都に上(のぼり)て、禅林寺(ぜんりんじの)長老夢窓(むさう)国師、喪礼(さうれい)被執行など聞へしかば、御息所(みやすどころ)は余(あま)りの為方(せんかた)なさに御車(おんくるま)に被助載て、禅林寺(ぜんりんじ)の辺(あたり)まで浮(うか)れ出(いで)させ給へば、是(これ)ぞ其御事(そのおこと)と覚敷(おぼしく)て、墨染(すみぞめ)の夕(ゆふべ)の雲に立(たつ)煙(けむり)、松の嵐に打靡(うちなび)き、心細く澄上(すみのぼ)る。さらぬ別(わかれ)の悲(かなし)さは、誰とても愚(おろか)ならぬ涙なれ共(ども)、宮などの無止事御身(おんみ)を、剣(やいば)の先(さき)に触(ふれ)て、秋の霜の下に消終(きえはて)させ給(たまひ)ぬる御事(おんこと)は、無類悲(かなしみ)なれば、想像(おもひやり)奉る今はの際(きは)の御有様(おんありさま)も、今一入(ひとしほ)の思ひを添(そへ)て、共に東岱(とうたい)前後の烟と立登(たちのぼ)り、北芒新丘(ほくばうしんきう)の露共(とも)消(きえ)なばやと、返る車の常盤(とことは)に、臥沈(ふししづ)ませ給(たまひ)ける、御心(おんこころ)の中(うち)こそ哀(あはれ)なれ。行(ゆき)て訪旧跡、竹苑(ちくゑん)故宮(こきゆうの)月心を傷(いたま)しめ、帰(かへりて)臥寒閨、椒房(さうばう)寡居(くわきよ)の風夢を吹(ふき)、著見に順聞に、御歎(おんなげき)日毎(ひごと)に深く成行(なりゆき)ければ、軈(やがて)御息所(みやすどころ)も御心地(おんここち)煩(わづら)ひて、御中陰(ごちゆういん)の日数(ひかず)未終(いまだをへざる)先(さき)に、無墓成(なら)せ給ひければ、聞(きく)人毎(ひとごと)に押並(おしなべ)て、類(たぐ)ひ少なき哀(あはれ)さに、皆袂(たもと)をぞ濡(ぬら)しける。
| 太平記 | 20:33 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
『太平記』巻第十七の8(国民文庫)
『太平記』巻第十七の8(国民文庫) 入力者 荒山慶一


○立儲君被著于義貞事(こと)付(つけたり)鬼切(おにきり)被進日吉事 S1708

暫(しばらく)有(あつ)て、義貞朝臣父子兄弟三人(さんにん)、兵三千(さんぜん)余騎(よき)を召具(めしぐ)して被参内たり。其(その)気色皆忿(いか)れる心有(あり)といへ共(ども)、而(しか)も礼儀みだりならず、階下(かいか)の庭上(ていじやう)に袖を連(つら)ねて並居(なみゐ)たり。主上(しゆしやう)例よりも殊に玉顔(ぎよくがん)を和(やはら)げさせ給(たまひ)て、義貞・義助を御前(おんまへ)近く召(めさ)れ、御涙(おんなみだ)を浮べて被仰けるは、「貞満(さだみつ)が朕(ちん)を恨申(うらみまうし)つる処、一儀(いちぎ)其謂(そのいはれ)あるに似(に)たりといへ共(ども)、猶遠慮(ゑんりよ)の不足に当(あた)れり。尊氏超涯(てうがい)の皇沢(くわうたく)に誇(ほこつ)て、朝家(てうけ)を傾(かたむけ)んとせし刻(きざみ)、義貞も其(その)一家(いつけ)なれば、定(さだめ)て逆党(ぎやくたう)にぞ与(くみ)せんと覚(おぼえ)しに、氏族を離れて志を義にをき、傾廃を助(たすけ)て命を天に懸(かけ)しかば、叡感更に不浅。只汝が一類(いちるゐ)を四海(しかい)の鎮衛(ちんゑ)として、天下を治めん事をこそ思召(おぼしめし)つるに、天運時(とき)未到(いまだいたらず)して兵疲れ勢(いきほ)ひ廃(すた)れぬれば、尊氏に一旦(いつたん)和睦(わぼく)の儀を謀(はかつ)て、且(しばら)くの時を待(また)ん為に、還幸(くわんかう)の由をば被仰出也(なり)。此(この)事(こと)兼(かねて)も内々知(しら)せ度(たく)は有(あり)つれ共(ども)、事遠聞(ゑんぶん)に達せば却(かへつ)て難儀なる事も有(あり)ぬべければ、期(ご)に臨(のぞん)でこそ被仰めと打置(うちおき)つるを、貞満が恨申(うらみまうす)に付(つい)て朕(ちん)が謬(あやまり)を知れり。越前国(ゑちぜんのくに)へは、川島(かうしま)の維頼(これより)先立(さきだつ)て下(くだ)されつれば、国の事定(さだめ)て子細(しさい)あらじと覚(おぼゆ)る上、気比(けひ)の社(やしろ)の神官等(しんぐわんら)敦賀(つるが)の津(つ)に城を拵(こしら)へて、御方(みかた)を仕(つかまつる)由聞ゆれば、先(まづ)彼(かしこ)へ下(くだつ)て且(しばら)く兵(つはもの)の機(き)を助け、北国を打随(うちしたが)へ、重(かさね)て大軍を起して天下の藩屏(はんぺい)となるべし。但(ただし)朕京都へ出(いで)なば、義貞却(かへつ)て朝敵(てうてき)の名を得つと覚(おぼゆ)る間、春宮(とうぐう)に天子の位を譲(ゆづり)て、同(おなじく)北国へ下し奉(たてまつる)べし。天下の事小大(なに)となく、義貞が成敗(せいばい)として、朕(ちん)に不替此(この)君を取立進(とりたてまゐら)すべし。朕(ちん)已(すで)に汝が為に勾践(こうせん)の恥を忘る。汝早く朕が為に范蠡(はんれい)が謀を廻(めぐ)らせ。」と、御涙(おんなみだ)を押(おさ)へて被仰ければ、さしも忿(いか)れる貞満も、理(り)を知らぬ夷共(えびすども)も、首(かうべ)を低(た)れ涙を流して、皆鎧の袖をぞぬらしける。九日(ここのか)は事騒(さわがし)き受禅(じゆぜん)の儀、還幸(くわんかう)の装(よそほひ)に日暮(くれ)ぬ。夜更(ふく)る程(ほど)に成(なつ)て、新田左中将(さちゆうじやう)潜(ひそか)に日吉(ひよし)の大宮権現(おほみやごんげん)に参社(さんしや)し玉(たま)ひて、閑(しづか)に啓白(けいびやく)し給(たまひ)けるを、「臣苟(いやしく)も和光(わくわう)の御願(ごぐわん)を憑(たのん)で日を送り、逆縁(ぎやくえん)を結(むすぶ)事(こと)日已(すで)に久し。願(ねがはく)は征路万里(せいろばんり)の末迄も擁護(おうご)の御眸(おんまなじり)を廻(めぐ)らされて、再(ふたたび)大軍を起し朝敵(てうてき)を亡(ほろぼ)す力を加へ給へ。我(われ)縦(たとひ)不幸にして命の中(うち)に此望(こののぞみ)を不達と云共(いふとも)、祈念冥慮(みやうりよ)に不違ば、子孫の中に必(かならず)大軍を起(おこす)者有(あつ)て、父祖の尸(かばね)を清めん事を請(こ)ふ。此二(このふたつ)の内一(ひとつ)も達する事を得ば、末葉(まつえふ)永く当社の檀度(だんと)と成(なつ)て霊神の威光を耀(かかやか)し奉るべし。」と、信心を凝(こら)して祈誓(きせい)し、当家累代(るゐたいの)重宝(ちようはう)に鬼切(おにきり)と云(いふ)太刀を社壇にぞ被篭ける。
| 太平記 | 19:15 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
『太平記』巻第十八の6(国民文庫)
『太平記』巻第十八の6(国民文庫)入力者 荒山慶一

○金崎(かねがさきの)城(じやう)落(おつる)事(こと) S1806
金崎(かねがさきの)城(じやう)には、瓜生(うりふ)が後攻(ごづめ)をこそ命に懸(かけ)て待(また)れしに、判官打負(うちまけ)て、軍勢(ぐんぜい)若干(そくばく)討(うた)れぬと聞へければ、憑(たのむ)方(かた)なく成(なり)はて、心細(ぼそく)ぞ覚(おぼえ)ける。日々に随(したがつ)て兵粮乏(とぼし)く成(なり)ければ、或(あるひ)は江魚(えのうを)を釣(つり)て飢(うゑ)を資(たす)け、或(あるひ)は礒菜(いそな)を取(とつ)て日を過(すご)す。暫(しば)しが程こそ加様(かやう)の物に命を続(つい)で軍(いくさ)をもしけれ。余(あま)りに事迫(つま)りければ、寮(れう)の御馬(おんむま)を始(はじめ)として諸大将(しよだいしやう)の被立たる秘蔵(ひさう)の名馬(めいば)共(ども)を、毎日一疋(いつぴき)づゝ差殺(さしころ)して、各是(これ)をぞ朝夕の食(じき)には当(あて)たりける。是(これ)に付(つけ)ても後攻(ごづめ)する者なくては、此(この)城(じやう)今十日とも堪(こらへ)がたし。総大将(そうだいしやう)御兄弟(ごきやうだい)窃(ひそか)に城を御出(おんいで)候(さふらひ)て杣山(そまやま)へ入(いら)せ給ひ、与力(よりき)の軍勢(ぐんぜい)を被催て、寄手(よせて)を被追払候へかしと、面々(めんめん)に被勧申ければ、現(げ)にもとて、新田左中将(さちゆうじやう)義貞・脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助・洞院(とうゐん)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよ)・河島(かうしま)左近(さこんの)蔵人惟頼(これより)を案内者(あんないしや)にて上下七人(しちにん)、三月五日の夜半許(やはんばかり)に、城を忍(しの)び抜出(ぬけい)て杣山(そまやま)へぞ落著(おちつか)せ給ひける。瓜生・宇都宮(うつのみや)不斜(なのめならず)悦(よろこび)て、今一度(いちど)金崎(かねがさき)へ向(むかつ)て、先度(せんど)の恥を雪(きよ)め城中(じやうちゆう)の思(おもひ)を令蘇せと、様々思案を回(めぐら)しけれども、東風漸(やうやく)閑(しづか)に成(なつ)て山路の雪も村消(むらぎえ)ければ、国々の勢も寄手(よせて)に加(くははり)て兵十万騎(じふまんぎ)に余れり。義貞の勢(せい)は僅(わづか)に五百(ごひやく)余人(よにん)、心許(ばかり)は猛(たけ)けれ共(ども)、馬・物具(もののぐ)も墓々(はかばか)しからねば、兎(と)やせまし角(かく)やせましと身を揉(もう)で、二十日(はつか)余(あま)りを過(すご)しける程(ほど)に、金崎(かねがさき)には、早(はや)、馬共をも皆食尽(くひつく)して、食事(しよくじ)を断(た)つ事十日許(ばかり)に成(なり)にければ、軍勢共(ぐんぜいども)も今は手足もはたらかず成(なり)にけり。爰(ここ)に大手(おほて)の攻口(せめくち)に有(あり)ける兵共(つはものども)、高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)が前に来(きたつ)て、「此(この)城(じやう)は如何様(いかさま)兵粮に迫(つま)りて馬をばし食(くひ)候やらん。初め比(ごろ)は城中(じやうちゆう)に馬の四五十疋(しごじつぴき)あるらんと覚(おぼ)へて、常に湯洗(ゆあらひ)をし水を蹴(け)させなんどし候(さふらひ)しが、近来(このごろ)は一疋(いつぴき)も引出(ひきだ)す事も候はず。哀(あつぱれ)一攻(ひとせめ)せめて見候はばや。」と申(まうし)ければ、諸大将(しよだいしやう)、「可然。」と同じて、三月六日の卯刻(うのこく)に、大手・搦手(からめて)十万騎(じふまんぎ)、同時に切岸(きりきし)の下、屏際(へいきは)にぞ付(つけ)たりける。城中(じやうちゆう)の兵共(つはものども)是(これ)を防(ふせが)ん為に、木戸(きど)の辺迄(へんまで)よろめき出(いで)たれ共(ども)、太刀を仕(つか)ふべき力もなく、弓を挽(ひく)べき様(やう)も無(なけ)れば、只徒(いたづら)に櫓(やぐら)の上に登り、屏(へい)の陰(かげ)に集(あつまり)て、息つき居たる許(ばかり)也(なり)。寄手共(よせてども)此(この)有様を見て、「さればこそ城は弱りてけれ。日の中に攻(せめ)落さん。」とて、乱杭(らんぐひ)・逆木(さかもぎ)を引(ひき)のけ屏(へい)を打破(うちやぶつ)て、三重(さんぢゆう)に拵(こしらへ)たる二の木戸(きど)迄ぞ攻入(せめいり)ける。由良(ゆら)・長浜二人(ににん)、新田越後(ゑちごの)守(かみ)の前に参(さん)じて申(まうし)けるは、「城中(じやうちゆう)の兵共(つはものども)数日(すじつ)の疲(つか)れに依(よつ)て、今は矢の一(ひとつ)をも墓々敷(はかばかしく)仕(つかまつり)得候はぬ間、敵既(すで)に一二の木戸(きど)を破(やぶつ)て、攻近付(せめちかづい)て候也(なり)。如何(いかに)思食共(おぼしめすとも)叶(かなふ)べからず。春宮(とうぐう)をば小舟にめさせ進(まゐら)せ、何(いづ)くの浦へも落(おと)し進(まゐら)せ候べし。自余(じよ)の人々は一所(いつしよ)に集(あつまり)て、御自害(ごじがい)有(ある)べしとこそ存(ぞんじ)候へ。其(その)程は我等責口(せめくち)へ罷向(まかりむかつ)て、相支(あひささへ)候べし。見苦(みぐる)しからん物共をば、皆海へ入(いれ)させられ候へ。」と申(まうし)て、御前(おんまへ)を立(たち)けるが、余(あま)りに疲れて足も快(こころよ)く立(たた)ざりければ、二の木戸の脇(わき)に被射殺伏(ふし)たる死人(しにん)の股(もも)の肉を切(きつ)て、二十(にじふ)余人(よにん)の兵共(つはものども)一口づゝ食(くう)て、是(これ)を力にしてぞ戦(たたかひ)ける。河野(かうの)備後(びんごの)守(かみ)は、搦手(からめて)より責入(せめいる)敵を支(ささへ)て、半時計(はんじばかり)戦(たたかひ)けるが、今はゝや精力(せいりよく)尽(つき)て、深手(ふかで)余多(あまた)負(おひ)ければ、攻口(せめくち)を一足(ひとあし)も引退(ひきしりぞ)かず、三十二人(さんじふににん)腹切(きつ)て、同枕(おなじまくら)にぞ伏(ふし)たりける。新田越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)は、一宮(いちのみや)の御前(おんまへ)に参(まゐり)て、「合戦の様(やう)今は是(これ)までと覚(おぼ)へ候。我等無力弓箭(きゆうせん)の名を惜(をし)む家にて候間、自害仕らんずるにて候。上様(うへさま)の御事(おんこと)は、縦(たとひ)敵の中へ御出(おんいで)候(さうらふ)共(とも)、失ひ進(まゐら)するまでの事はよも候はじ。只加様(かやう)にて御座(ござ)有(ある)べしとこそ存(ぞんじ)候へ。」と被申ければ、一宮(いちのみや)何(いつ)よりも御快気(おんこころよげ)に打笑(うちゑま)せ給(たまひ)て、「主上(しゆしやう)帝都へ還幸(くわんかう)成(なり)し時、以我元首(ぐわんしゆの)将とし、以汝令為股肱臣。夫(それ)無股肱元首(ぐわんしゆ)持(もつ)事(こと)を得んや。されば吾(われ)命を白刃(はくじん)の上に縮(しじ)めて、怨(あた)を黄泉(くわうせん)の下(もと)に酬(むく)はんと思(おもふ)也(なり)。抑(そもそも)自害をば如何様(いかさま)にしたるがよき物ぞ。」と被仰ければ、義顕(よしあき)感涙を押(おさ)へて、「加様(かやう)に仕る者にて候。」と申(まうし)もはてず、刀を抜(ぬい)て逆手(さかて)に取直し、左の脇に突立(つきたて)て、右の小脇のあばら骨二三枚懸(かけ)て掻破(かきやぶ)り、其(その)刀を抜(ぬい)て宮の御前(おんまへ)に差置(さしおき)て、うつぶしに成(なつ)てぞ死(しし)にける。一宮(いちのみや)軈(やが)て其(その)刀を被召御覧ずるに、柄口(つかぐち)に血余(あま)りすべりければ、御衣(ぎよい)の袖にて刀の柄(つか)をきり/\と押巻(おしまか)せ給(たまひ)て、如雪なる御膚(おんはだへ)を顕(あらは)し、御心(おんむね)の辺(へん)に突立(つきたて)、義顕が枕の上に伏させ給ふ。頭大夫(とうのだいぶ)行房(ゆきふさ)・里見(さとみ)大炊助(おほいのすけ)時義(ときよし)・武田(たけだの)与一・気比(けひの)弥三郎大夫(たいふ)氏治(うぢはる)・大田帥(おほたそつの)法眼(ほふげん)以下(いげ)御前(おんまへ)に候(さふらひ)けるが、いざゝらば宮の御供(おんとも)仕らんとて、同音に念仏唱(となへ)て一度(いちど)に皆腹を切る。是(これ)を見て庭上(ていじやう)に並(なみ)居たる兵(つはもの)三百(さんびやく)余人(よにん)、互に差違(さしちがへ)々々(さしちがへ)弥(いや)が上に重伏(かさなりふす)。気比大宮司(けひのだいぐうじ)太郎は、元来力人に勝(すぐれ)て水練(すゐれん)の達者なりければ、春宮(とうぐう)を小舟に乗進(のせまゐら)せて、櫓(ろ)かいも無(なけ)れ共(ども)綱手(つなで)を己(おのれ)が横手綱(よこてつな)に結付(ゆひつけ)、海上三十(さんじふ)余町(よちやう)を游(およい)で蕪木(かぶらき)の浦へぞ著進(つけまゐら)せける。是(これ)を知(しる)人更(さら)に無(なか)りければ、潜(ひそか)に杣山(そまやま)へ入進(いれまゐら)せん事は最(いと)安かりぬべかりしに、一宮(いちのみや)を始進(はじめまゐら)せて、城中(じやうちゆうの)人々不残自害する処に、我(われ)一人逃(にげ)て命を活(いき)たらば、諸人の物笑(ものわらひ)なるべしと思(おもひ)ける間、春宮(とうぐう)を怪(あや)しげなる浦人(うらびと)の家に預け置進(おきまゐら)せ、「是(これ)は日本国の主(あるじ)に成(なら)せ給ふべき人にて渡(わたら)せ給ふぞ。如何にもして杣山(そまやま)の城へ入進(いれまゐら)せてくれよ。」と申(まうし)含めて、蕪木(かぶらき)の浦より取(とつ)て返し、本(もと)の海上を游ぎ帰(かへつ)て、弥三郎大夫が自害して伏(ふし)たる其(その)上(うへ)に、自(みづから)我首(わがくび)を掻落(かきおとし)て片手に提(ひつさげ)、大膚脱(おほはだぬき)に成(なつ)て死(しし)にけり。土岐(とき)阿波(あはの)守(かみ)・栗生(くりふ)左衛門・矢島七郎(しちらう)三人(さんにん)は、一所(いつしよ)にて腹切(きら)んとて、岩の上に立並(たちならん)で居たりける処に、船田長門(ながとの)守(かみ)来(きたつ)て、「抑(そもそも)新田殿(につたどの)の御一家(ごいつけ)の運(うん)爰(ここ)にて悉(ことごとく)極(きは)め給はゞ、誰々も不残討死すべけれ共(ども)、惣大将(そうだいしやう)兄弟杣山(そまやま)に御座(ござ)あり、公達(きんだち)も三四人(さんしにん)迄、此彼(ここかしこ)に御座(ござ)ある上は、我等一人も活残(いきのこつ)て御用(ごよう)に立(たた)んずるこそ、永代の忠功にて侍(はんべ)らめ。何(なん)と云(いふ)沙汰もなく自害しつれて、敵に所得(しよとく)せさせての用は何事ぞや。いざゝせ給へ、若(もし)やと隠(かく)れて見ん。」と申(まうし)ければ、三人(さんにん)の者共(ものども)船田が迹(あと)に付(つい)て、遥(はるか)の礒へぞ遠浅(とほあさ)の浪を分(わけ)て、半町許(ばかり)行(ゆき)たれば、礒打(うつ)波に当りて大(おほき)に穿(うげ)たる岩穴(いはあな)あり。「爰(ここ)こそ究竟(くつきやう)の隠(かく)れ所なれ。」とて、四人共に此(この)穴の中に隠れて、三日三夜を過(すご)しける心の中(うち)こそ悲しけれ。由良(ゆら)・長浜は、是(これ)までも猶(なほ)木戸口(きどぐち)に支(ささ)へて、喉(のんど)乾(かわ)けば、己(おのれ)が疵(きず)より流るゝ血を受(うけ)て飲み、力落(おち)疲(つか)るれば、前に伏(ふし)たる死人の肉を切(きつ)て食(くう)て、皆人々の自害しはてん迄と戦(たたかひ)けるを、安間(あまの)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)走(わし)り下(くだつ)て、「何(いつ)を期(ご)に合戦をばし給(たまふ)ぞ。大将は早御自害(ごじがい)候(さふらひ)つるぞや。」と申(まうし)ければ、「いざやさらば、とても死なんずる命を、若(もし)やと寄手(よせて)の大将のあたりへ紛(まぎ)れ寄(よつ)て、よからんずる敵と倶(とも)に差違(さしちが)へて死(しな)ん。」とて、五十(ごじふ)余人(よにん)の兵共(つはものども)、三の木戸(きど)を同時に打出(うちいで)、責口(せめくち)一方の寄手(よせて)三千(さんぜん)余人(よにん)を追巻(おひまく)り、其(その)敵に相交(あひまじはつ)て、高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)が陣へぞ近付(ちかづき)ける。如何に心許(ばかり)は弥武(やたけ)に思へ共(ども)、城より打出(うちい)でたる者共(ものども)の為体(ていたらく)、枯槁憔悴(こかうせうすゐ)して、尋常(よのつね)の人に可紛も無(なか)りければ、皆人是(これ)を見知(しつ)て、押隔(おしへだて)ける間、一人も能(よき)敵に合(あふ)者無(なく)して、所々(しよしよ)にて皆討(うた)れにけり。都(すべ)て城中(じやうちゆう)に篭(こも)る処の勢(せい)は百六十人(ひやくろくじふにん)、其(その)中に降人(かうにん)に成(なつ)て助かる者十二人(じふににん)、岩の中に隠れて活(いき)たる者四人、其外(そのほか)百五十一人(ひやくごじふいちにん)は一時に自害して、皆戦場の土と成(なり)にけり。されば今に到(いたる)迄其怨霊共(そのをんりやうども)此(この)所に留(とどまつ)て、月曇り雨暗き夜は、叫喚求食(けうくわんくじき)の声啾々(しうしう)として、人の毛孔(まうく)を寒からしむ。「誓掃匈奴不顧身、五千貂錦喪胡塵、可憐無定河辺骨、猶是春閨夢裡人」と、己亥(きがい)の歳(とし)の乱(らん)を見て、陳陶(ちんたう)が作りし隴西行(ろうせいかう)も角(かく)やと被思知たり。
| 太平記 | 17:58 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
CALENDAR
S M T W T F S
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< May 2017 >>
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
LINKS
ARCHIVES
注目情報
モバイル
qrcode
PROFILE